詩篇 88篇

「主よ。私の救いの神よ。昼、私は叫びます。夜もあなたのみそばで。私の祈りを、あなたの御前にささげます。どうか、私の叫びに耳を傾けてください。」(88:1,2)

メッセージ訳では1節を、

神よ、あなたは私の最後のチャンスです。

と訳しています。

そして詩人は、ただ主に祈り求めます。

あなたの前にひざまずいて夜を過ごしています。」(MSG)

神は時として、私たちがそのような状況に追い込まれることを許されます。

使徒パウロも同じ体験をしました。

打ちのめされて、もうこれ以上生き延びるのはむりかと思いました。」(2コリント1:8LB)

彼は、自分の無力さを痛いほど思い知らされたと言います。

しかし、それで終わりません。

パウロは続けて言います。

しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神にお任せしたからです。」(9節LB)

神は私たちが神だけを頼るようにされます。

詩篇 87篇

「歌う者も、踊る者も、「私の泉はみなあなたにあります」と言う。」(87:7)

シオンはエルサレムの神殿が立つ丘を指し、エルサレム全体を象徴的に指します。

神の都よ。あなたについて、誉れあることが語られている。」(3節)

とありますように、この世の終わりに、世界中からエルサレムに巡礼する時代が来ることが預言されます。

そして、驚くことにそのことが実現しています。

小国イスラエルのエルサレムのことが、世界中の人々から注目されています。

私の泉はみなあなたにあります

とありますが、「泉」は「いのちの源」、「あなた」は「エルサレム神殿」のことを指しています。

すなわち神の臨在からいのちの水が流れ出すと歌う時が来ると言うのです。

イエス様が言ったように、今、生ける水の川は、キリストを信じる人の心の奥底から流れ出るようになります。(ヨハネ七・三八参照)

それは聖霊の働きです。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

詩篇 86篇

「わが神。主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめます。」(86:12)

私たちは心を尽くして神に感謝する理由があります。

詩人は言います。

あなたは私をとても愛し、あなたの偉大さを私の上に置いてくれました。あなたは私を深い闇の中から救い出してくれました。そして、私を確かな死から救い出してくれました。」(13節TPT)

前回、このデイリーで同じ箇所を読んだ時、私は新型コロナに罹患し、文字通り死から救い出してくださる主を体験しました。私たちの神への応答は詩人と同じです。

心の底から感謝します、主よ。あなたがしていることを、私は決して秘密にはしていません。」(12節MSG)

詩人は祈ります。

あなたの恵みの泉に私を連れていってください。あなたの力が私の力になるように。私のヒーローになって、もう一度あなたのしもべを救ってください。」(16節TPT)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 85篇

「恵みとまことは、ともに会い、義と平和は口づけします。」(85:10)

「恵み」と「まこと」と、「義」と「平和」が擬人化され、並べられています。

神の「恵み」と「まこと」に基づいて、この地に神の「義」と「平和」が実現するということを表現しているのだと思われます。

恵み(へセド)とまこと(エメット)は今年のキーワード、「信実の愛」と「真実」です。

恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:17)

とあるように、「恵み」と「まこと」は、イエス・キリストというお方にあって出会います。

イエス様の十字架の御業は、私たちに対する神の信実の愛、神の真実を現します。

「義」と「平和」(シャローム)も、イエス・キリストのうちにあります。

イエス・キリストは、義なる神であり、平和の君だからです。

ですから今日も、イエス・キリストの御名を呼び求めましょう。

私たちの本当の必要に答えることができるのは、イエス・キリストだけだからです。

詩篇 84篇

「万軍の神。主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。」(84:8)

主の大庭にいる一日は、この世の千日にまさると詩人は言います。

主の大庭とは、主のおられるところ、主の臨在、主のリビングルーム、「主を礼拝するところ」(MSG)です。

それは、「ギリシャの島々のビーチで過ごす千日にまさる」(MSG)と。

私たちはどうでしょうか。

主を礼拝している時、共に主に祈る時、リゾート地で過ごすときよりもはるかにすばらしい時を過ごしているという感覚をもっているでしょうか。

そのような人にとっては、涙の谷も、祝福のわき出る泉となるでしょう。」(6節LB)と詩人は言います。

8節の祈りは唐突な感じがしますが、祈りこそが主の大庭にいる秘訣であることを知っているならば不思議ではありません。

なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり、心の中に、シオンへの大路のある人は。」(5節)

詩篇 83篇

「こうして彼らが知りますように。その名が主であるあなただけが、全地の上におられる、いと高き方であることを。」(83:18)

この詩篇83篇のように過激な言葉が綴られた詩篇をどう解釈するかは大きな課題です。

どうしてこのような苦境にあるかは記されていません。

詩人はただ敵が悪を企んでいるから助けて欲しいと祈ります。

詩人の希望はただ一つ、「全地の上におられる、いと高き方」にかかっていました。

自分の無力さを体験する時、私たちは神の偉大な力を体験します。

興味深いことに詩人はこんなことを言います。

彼らは悪知恵を働かせて策略を練り、あなたにとってかけがえのない人たちを殺そうとしています。」(3節LB)

詩人はさりげなく苦境にある自分たちのことを「あなたにとってかけがえのない人たち」と呼びます。

私たちは神にとってかけがえのない存在であることを受け止め、主に祈りの声をあげましょう。

詩篇 82篇

「弱い者とみなしごのためにさばき、苦しむ者と乏しい者の正しさを認めよ。弱い者と貧しい者を助け出し、悪しき者たちの手から救い出せ。」(82:3,4)

聖書は明確に

世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」(1コリント8:4)

と言います。

この詩は神々の存在を肯定しているのではなく、裁判所が社会的弱者を助けるために存在しているということを表現しています。

自分で自分の身を守ることができない人々を救助するために、いろいろな社会的な地位がこの世では与えられています。

しかし、腐敗は紀元前からありました。

だから詩人は言います。

ああ、神よ、立ち上がって、この世をさばいてください」(8節LB)。

すべてを正される神を恐れる裁判官がこの地には必要です。

神の存在を意識するならば、私たちの社会はよりよい社会へと変えられていきます。

主が来られるまで、私たちは神の国をこの地にもたらす働きに召されています。

詩篇 81篇

「ほめ歌を歌い、タンバリンを打ち鳴らせ。麗しい音色の竪琴を、琴に合わせてかき鳴らせ。」(81:2)

この詩篇には、多くの楽器が登場します。

タンバリン(打楽器)、竪琴(弦楽器)、角笛(吹奏楽器)。

私たちはあらゆる楽器を用いて主なる神に賛美を捧げるように命じられています。

教会の歴史の中にはオルガンしか楽器を使うことが許されない時代もありましたが、聖書は様々な楽器を奏で、高らかに賛美を捧げるように命じます。

なぜなら、神は私たちの力の神(1節)だからです。

詩人は自分の知らない神のことばを聞き、歌います。

苦しみの中であなたは叫び、わたしはあなたを助け出した。」(7節)

主は私たちの祈りに答え、私たちを悪い場所から救い出してくださると言われます。(6節MSG)

わたしはおまえの肩の重荷を下ろす。おまえを重労働から解放する。おまえが『苦しい』と叫んだ時、わたしはおまえを助けた。」(LB)

詩篇 80篇

「万軍の神よ。私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。」(80:7)

困難を感じる時、私たちは神の臨在によって救われます。

詩人は嘲られ、虐げられていました(6節参照)。詩人は言います。

悲しみと涙が私たちの食べ物なのですか。」(5節LB)

どんなマイナスも、神はプラスに変えてくださいます。

私たちは、詩人の祈りを自分の祈りにすることができます。

「御顔」は「臨在」とも訳される単語です。

神の臨在が照り輝くのを体験するためには、神の臨在が照り輝く場所にいなければなりません。

イエス様はこう言われました。

悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。」(ヨハネ3:21,22)

詩人は、「私たちを元に戻し」と祈りますが、悔い改めて、主の方に戻って来る必要があります。

詩篇 79篇

「私たちは、あなたの民、あなたの牧場の羊です。私たちは、とこしえまでもあなたに感謝し、代々限りなく、あなたの誉れを語り告げます。」(79:13)

ああ神よ。あなたの地は、外国の軍隊の占領下にあります。神殿は汚され、エルサレムは瓦礫の山となりました。」(1節LB)

とあるように、この詩の土台となっているのはエルサレム神殿の崩壊です。

主よ。いつまでですか。とこしえに、あなたはお怒りになるのですか。」(5節)

とあるように、詩人はエルサレムが滅ぼされた理由を民の罪に対する神の御怒りと理解します。

それでもなお、詩人は救いを祈り求めます。

その根拠としてあげているのが、自分達は神の民、神に属する民であるということです。

詩人は理解していました。

神が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)

詩人は、神の民は神の素晴らしさを語り告げる民であるということを告白します。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。