やきいも

新年始まって早々の先週火曜日の真夜中、突然の嘔気とともにノロウイルスの症状は始まりました。昨年終わりの肺炎で「もうこのシーズンの体調の悪さはあれで終わりさ!」と勝手に思い込んでいたのに、なんということでしょう。つわりを10倍ぐらいひどくした感じで、それが丸一日続きました。ほんの少しの飲み物さえ身体が受け付けてくれないのです。何度自らの胃に手を当てて癒しを祈ったかわかりません。デイにもまた迷惑をかけてしまいかなり落ち込んでいます。あれから三日以上が経ち、ようやく水分を普通にとることができるようになってきました。何も食べられなかったのですが、きょう隣の福祉施設『杜の茶屋』の前で焼き芋が売られていたのでつい買って食べてみました。とてもおいしかったです。まさしく五臓六腑に芋が染渡る感じ。全てが私の身体の栄養となってくれそうです。そんな風に聖書の御言葉が私たちの身体に隅々まで染渡ることを願ってやみません。乾いた信仰に、御言葉の潤いを。焼き芋を食べながらこの言葉がリフレインしています。(小山晶子牧師夫人)

あけてしまいました

なんということでしょう。2017年が明けてしまいました。今年は珍しく元旦が日曜日。新年を始めるにあたって最も良い形のような気がします。今年はどんな一年になるのか、全く予測ができませんが、地に足をつけた信仰生活を心がけていきたいと思います。マイナスに見えることが多いように感じるかもしれませんが、神様の確かなご計画の中で歩んでいることを常に確認し、意識できる日々でありたいと思います。ここまで主が運んでくださったように、これからも主は私たちを運んでくださいます。状況に思いが左右されるような時には、主がペテロに語って下さった言葉を思い出しましょう。
『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』
『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』
御言葉を大切に、歩んでいきましょう。祈りはクリスチャンの呼吸、御言葉は食物です。どちらを怠っても飢餓状態になります。この一年を終える時、健康なクリスチャン生活を送った、と私たちみんなが言えることを願っています。

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 123篇

「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。」(1節)

礼拝は神に目を上げることから始まります。神は天の御座に着いておられます。すべての上におられます。信仰の人は神を見上げます。見下げたりしません。神の御子、イエス・キリストは仕える者となられました。しかし、それは私たちが神を利用できるという意味ではありません。神は、人が自分の快適さを保つために命令できるようなしもべではありません。もし、神を理解したいならば、私たちは目を上げる必要があります。権威の場所、聖書のみことばを見上げる必要があります。立ち位置を間違えないように気をつける必要があります。神は神であり、創造者です。人は人であり、被造物の一つです。驚くことは、そんな私たちを神は心にかけ、愛されているということです。週の初めの日、まず、神に目を上げることから始めましょう。

詩篇 106篇

「主は幾たびとなく彼らを救い出されたが、彼らは相計らって、逆らい、自分たちの不義の中におぼれた。それでも彼らの叫びを聞かれた時、主は彼らの苦しみに目を留められた。」(43,44節)

106篇にはイスラエルの民のこれまでの歩みがわかりやすく記されています、神を、時には信頼し、時には裏切り、また悔い改めて立ち返る、といった身勝手な振る舞いに、読んでいるこちらのほうが叱責したくなるような内容です。しかし、神を賛美していたかと思えば次の瞬間平気で不平不満をぶつけるその姿は、よく見ると自分自身の人生でもあることに気づきます。客観的に自分の人生を書き出してみるともしかしたらこの106篇と同じような内容になるかもしれません。だからこそ、今日の箇所は大きな慰めです。

「それでもなお、主はその叫びを聞き、その苦境を思いやりました。」(LB)

神のあわれみをおぼえつつ今日も歩んでいきましょう。

うめの悲劇

 ワクワクしながら今年も梅の花を眺めていました。毎年教会の駐車場入り口にある小さな梅の木は、特にここ数年鈴なりに実をつけ、婦人会の皆さんと収穫するのを心待ちにしていました。たくさんの梅の花に、今年の収穫を大いに期待していたのですが、何ということでしょう。テントウムシの大繁殖によりたった一つしか実を付けなかったのです。ショックです。でもよくよく考えてみるといつも別段手入れをしていたわけでもなく、今年手入れを怠ったという訳でもなく、一言で言うと『仕方ないな』という所でしょうか。きっとこういうヨベルの年のような時期も必要なのでしょう。人生においても、ものすごく頑張ったのに報われない時、たいしてやってないのにうまくいくときがありませんか。そのすべての「時」が神様の御手の中にあること認めるなら、じたばたせず、かといってあきらめることもなく、主の「最善の時」を希望をもって待つことが出来るのだと思います。葉っぱの上に残ったたくさんのテントウムシの抜け殻を見ながら、そんなことを考えていました。(小山晶子牧師夫人)

ヨブ記 18章

「悪者どもの光は消え、その火の炎も輝かない。」(5節)

ヨブの友人ビルダデは、ヨブが悪いと納得させようとします。LBではこのように訳しています。

「あんたが繁栄しなかったとしたら、それはあんたが悪人だったからだ。炎が消えて当然だ。」

これは、苦難の中にいる人に、何の慰めにもなりません。ビルダデは、「因果応報」という自分の人生哲学を守るために、苦難にあえぐヨブをどん底に落としました。自分の人生哲学を貫き通すことと、苦難の中に落ち込む人を慰めること、どちらが大事でしょうか。イエス様は後者を選びました。真理を曲げたわけではありませんが、ビルダデとは違い、共に泣き、とりなすことを選ばれました。聖書は言います。

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)

2サムエル 3章

「これらはヘブロンでダビデに生まれた子どもである。」(6節)

聖書には、はっきりと

「多くの妻を持ってはならない。」(申17:17)

と、一夫多妻を否定しています。しかし、ダビデは多くの妻をもってしまい、それが多くの問題を彼の人生に引き起こしました。しかし、聖書はダビデの失敗を隠すことなく、そのまま記録しています。私たちは、神様が完全な人しか用いることができないと思います。しかしダビデという人物は本当に不完全な人でした。神様に対する心がある限り、神様は不完全な人を用いてくださいます。この事実は私たちに人に対する健康な見方を与えてくれます。人は私たちを失望させることがあります。人は不完全であり、失敗することがあります。英雄視されるダビデも、不完全な人間でした。ですから、私たちは人ではなく、イエス様に焦点を合わせなければなりません。イエス様だけが完全なお方だからです。

※ 明日のSSCの第三礼拝は、町田で15時からもたれる合同聖会(ゲスト:吉村美穂、メッセージ:小山牧師)に合流するためお休みです。

1サムエル 31章

「ヤベシュ・ギルアデの住民が、ペリシテ人のサウルに対するしうちを聞いたとき、勇士たちはみな、立ち上がり、夜通し歩いて行って、」(11,12節)

ヤベシュ・ギルアデの勇士たちは、命をかけてサウル王の死体を取りにいったとあります。彼らはどうしてそこまでしたのでしょうか?サウルが王になって、最初にサウル王が助けた人々がヤベシュの人々でした。(11章参照)彼らはそのことに対する感謝を忘れなかったと考えられます。聖書は言います。

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38)

イエス・キリストは、文字通り私たちのために身代わりに十字架にかかられ、いのちを与えてくださいました。感謝を忘れませんように。

※ 小山牧師は、本日のCGNTVのリビングライフにも出演しています。YouTubeでご覧になれます。リンク先は、ここをクリック。

レビ記 24章

「骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。」(20節)

償いの義務に関する有名な律法ですが、キリストは本当の意味をこう語っています。

「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38,39)

もともとレビ記で言いたかったことは、度を超えた復讐の制限でした。復讐の連鎖は何も生み出さないからです。キリストは自分を嘲る人々に嘲り返すことはしませんでした。自分に唾を吐く人に、唾を吐き返しませんでした。自分を裏切った人々に、裏切り返すことはしませんでした。ご自分を否定し、無視する人類を救うために十字架の上で死んで下さいました。

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)

レビ記 15章

「・・・自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。」(5節)

洗濯をすることも、水浴することも、衛生上大切なことであることは現代に生きる私たちには何も問題がない内容だと思います。宗教的にも、水を浴びて身を清めるという概念は、理解できないことではないと思います。しかし、聖書には

「みことばにより、水の洗いをもって、」(エペソ5:26)

という箇所があります。私たちは聖書のみことばによっても洗われる必要があると言います。イエス様は言われました。

「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」(ヨハネ15:3)

キリストの十字架の血潮によって、キリストを信じる者は、水のバプテスマに象徴されますように、すでにきよくされています。そして、日々の生活の中で、聖書のみことばに耳を傾け、黙想し続けることによって、私たちはきよめられていくことを覚えたいと思います。