pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ああ、花粉症

皆さんは花粉症に苦しんでいませんか。

わたしは今年が人生で一番花粉症の症状が酷いです。

アレルギーの薬は一年中飲んでいるのですが太刀打ちできません。

夜中は咳と口の中の痒みで目が覚め、朝はくしゃみと耳の中の痒みに苦しみ、鼻も目もむずむず、顔も絶えず痒い。

どうも一緒に風邪もひいたらしく深い咳にも悩まされ、咳のしすぎで声がかすれ今日の賛美リードができないという有様。

一応試しにかすれ声で少し歌ってみたのですが全くダメでした。

先週1週間は様々な方面から抱えきれないことが次々と襲ってきて、まるで嵐に翻弄される錨の無い船のようでした。

あまりにも色んなことが起こるのでもう、笑っちゃうくらい。

生きてる!という感じがします。

しんどいですが神様の御心を求めて絶えず祈れることは恵みだと思っています。

この世では私たちは旅人であり寄留者。ほんの束の間の日々です。

挫けそうになる時はイエス様の歩んでくださった十字架の道を深く思い、聖霊様の助けを求めながら与えられた信仰のレースを今週も走る(歩く)ことができますように。

祝福を祈ります。
(小山晶子牧師婦人)

詩篇 61:1-8

「私はあなたの幕屋にいつまでも住み御翼の陰に身を避けます。」(4節)

詩人は神を呼び求める中で、遠く離れていると思っていた神が、身近な「避け所」であることを思い出します。

メッセージ訳ではこんな風に訳しています。

あなたはいつも私に息をする場所、すべてから逃れられる場所を与えてくれました。

息苦しさを感じる人生の中で、誰もが、「息をつく場所」を必要としていると思います。

詩人は息をつくことができる場所を神の臨在の中に見出しました。

「幕屋」も、「御翼の陰」も、神の臨在を象徴する表現です。

人は神の臨在の中で、息をすることができます。

コーリー・テン・ブームは、こんなことを言っています。

「もしあなたが、この世界を見回しているなら、悩むことでしょう。もしあなたが、自分の内側を見ているなら、落ち込むことでしょう。もしあなたが、キリストを見上げるなら、安らぎをえるでしょう。」

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 60:1-12

「神は聖所から告げられました。」(60:6)

多くの学者たちは、これを、エルサレムの聖所で、祭司や預言者によって告げられた託宣と考えます。

それで、「聖所から」と訳します。

しかし、前置詞を考えると、「聖所で」、「聖所の中で」、もしくは、「その聖さによって」(by His holiness)と訳す方が自然だと思います。

要するに、神はご自身の聖さに誓って、約束を与えられたと理解できます。

神の御言葉は、ご自身の聖さに誓って語られた言葉であるがゆえに信じるに値します。

神はその約束を忘れることはありません。

必ず、成し遂げられます。

また、神の臨在の中で神が語られるという世界もあります。

教会で、共に聖書を開き、牧師が語る説教に耳を傾ける中で語られるということがあります。

賛美を歌っているとき、賛美の中で語られるということがあります。

祈りの中で、神が語られるということがあります。

詩篇 59:1-17

「私の力よ、私はあなたを見続けます。神が私の砦だからです。」(59:9)

「見続けます」と訳された単語が、一般的に「見張る」「守る」という意味の単語なので、直訳すると「あなたを私は見張ります」となります。

日本語に訳すことが難しい単語です。

聖書協会共同訳では「言葉」という単語を補って、

わが力よ、私はあなたの言葉を守ります

と訳しています。

「見続けます」ということは、神からの救いをじっと待ち望むことです。

信仰の創始者であり、完成者である、イエス様から目を離さないということです。

「私の力」は、「生きる力」を与えてくれるという意味があります。

それでLBは、「私の力の源」と訳したのだと思います。

頑張るだけではどうにもならないことがあります。

イエス様は私たちに力を与える「助け主」を遣わしてくださると約束してくださいました。(ヨハネ14:26参照)

私たちは聖霊なる神様から日々力をいただく必要があります。

詩篇 58:1-11

「こうして人は言う。「まことに正しい人には報いがある。まことにさばく神が地におられる。」」(58:11)

3つのポイントがあります。

一つの目のポイントは、「社会への影響」です。

「人々は言おう」というところをLBは「だれの目にも明らかになるのです」と訳しています。

神の勝利は、自分だけでなく、社会全体へ影響を与えるものになります。

私たちは自分個人の問題だと思ってしまうのですが、祈りの中で見ることになる神の勝利は、自分だけに収まることはありません。

社会全体へ影響を与えることになります。

周りの人たちは、祈りを聞かれる主なる神を見ることになります。

二つ目のポイントは、「正しい者には報いがある」ということです。

正しく生きることが無意味に思えてしまうような社会であっても、神を恐れ、正しく生きようとする者に、神は必ず報いてくださいます。

三つ目のポイントは、「さばく神が、地におられる」という確信です。

詩篇 57:1-11

「私のたましいよ。目を覚ませ。琴よ。竪琴よ。目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。」(57:8)

表題に

ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに。

とあるように、1サムエル記22章がこの箇所の背景にあると考えられています。

ダビデがこの「洞窟の時」を乗り越えることができた理由の一つは、洞窟の中で確信をもって、賛美を歌うことができたからです。

ダビデの

さあ、歌って夜明けを待とう。」(LB)

という姿勢は、獄中にいたパウロとシラスが、真夜中ごろ賛美を歌っていたという使徒の働き16章の内容を彷彿とさせます。

歌って夜明けを待とう。

という姿勢が、神の奇跡をもたらします。

ダビデは「洞窟にいたとき」に、この賛美の歌を歌いました。

夜明け前、まだ、何も見えない時に、ダビデはこの賛美の歌を歌ったのです。

そして、その賛美の歌声は世界中へと広げられていきました。

神の栄光は全地であがめられています。

詩篇 56:1-13

「私がいのちの光のうちに神の御前に歩むために。」(56:13)

神の臨在に、いのちの光の中に進みゆくために」(直訳)

「いのちの光」に関しては、イエス様はこのように言われました。

わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)

つまり、私たちが救われたのは、イエス様に従うことによって命の光を持ち、神の臨在とともに前進するためです。3節にこのように記されています。

心に恐れを覚える日、私はあなたに信頼します。

つまり、「恐れのある日」は、「信頼の日」だと言います。

ある聖書学者(Goldingay)はこのように説明しています。

「神への信頼は恐れに対する解毒剤です。なぜなら神の現実は、私たちに恐れを抱かせる対象の現実よりも大きいからです。」

これは精神論ではありません。

4節にあるように、聖書の御言葉からくる確信です。

詩篇 55:16-23

「しかし私はあなたに拠り頼みます。」(55:23)

この箇所の「私は」は強調されています。

つまり、何があっても「私自身は」神により頼みますと言っているのです。

何があっても「私自身は」神を信頼しますと。

ギリシア語七十人訳では「それでも私はあなたに希望を置きます、主よ」と訳しています。

何があっても「私自身は」神を信頼し続け、神に希望を抱き続けますというのです。

ダビデが問題を抱えていた相手は13節を見ると「私の同輩、私の友、私の親友」です。

親友から裏切られたというのは、本当に傷つくと思います。

二つ目の「私の友」を、ギリシア語七十人訳では「私のリーダー」と訳しています。

親友も傷つきますが、自分の尊敬するリーダーから裏切られるというのは、それ以上に傷つくと思います。

もちろん人間ですから、欠けは誰にでもあると思います。

いろいろありますが、それでも私自身は神に信頼する、神に希望を抱くという姿勢が大事です。

捕まった、、、

少し心の傷が癒えたので文字にしてみようと思います。

実は2週間前警察に捕まってしまいました。

諸用で向かった目的地への最後の細い道からメイン道路へ、信号機のない道を右折。

信号で停止し青に変わったところを左折。

するとそこに警察官が立っていて手招き。

どうやらその信号機手前の横断歩道でわたしはしっかり止まりきれていなかったようです。

ナビを確認しながらそろりそろりと時速が出ないほどゆっくりとしたスピードだったのですが一時停止を怠ってしまったことに変わりはありません。

長年ゴールド免許保持を誇りとしていましたがあっけなく失ってしまいました。

誇りなんて一瞬にして消え去るものなのですね、、、

しかもまた二俣川に逆戻り。

うえーん。

なぜか「本当にすみません、今一時停止されましたか?」とものすごくすまなさそうに警察官に声をかけられ、その後何度も謝られるという珍事。

でもダメなものはダメなのよね、、、

贖いの代価は二点の減点と罰金七千円。

「三年後(免許の更新年)一緒に二俣川行こうよ!」

と青色免許の長男に励まされ少々複雑な気持ちのわたしです。

 (小山晶子牧師婦人)

詩篇 55:1-15

「神よ。私の祈りを耳に入れ、私の切なる願いに、耳を閉ざさないでください。私をみこころに留め、私に答えてください。私は悲嘆に暮れ、泣き叫んでいます。」(55:1,2)

「切なる願い」と訳された単語(テヒンナー)は、神の「恵み」(ヘーン)を願うことです。

人は神の恵みが必要です。

「私は悲嘆に暮れ、泣き叫んでいます」をメッセージ訳は「私は本当にあなたが必要です!」(I really need you.)と訳しています。

私たちが苦しみ、嘆き、さまようのは、神が必要であることを私たちが認識するためかもしれません。

私たちは、神が必要な存在だからです。

絶望の中にいたダビデは、とにかくどこか遠くに行きたいと願います。

小林和夫師はこのように解説します。

「詩人は・・・町から逃れて、安全な荒野に行くことを願ったが、苦悩からの自由は、場所を変えたり逃げだしたりすることでは解決しない。」

聖書が教える解決策は「祈り」です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!