pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

Ⅱサムエル 7章

「あなたの約束どおりに行なってください。」(25節)

ダビデは自分は立派な家に住んでいるのに、神様のためには何も造っていないことに心を痛め、神殿を建てたいことを預言者ナタンに相談します。神様は神殿を建てることを許可しませんでしたが、そんなダビデの家系から救い主が生まれることを約束します。ダビデはどこまでその約束の意味を理解していたかは分かりませんが、信仰をもって「あなたの約束どおりに行なってください。」と祈ります。聖書にはたくさんの約束が記されています。スポルジョン師はこんなことを言っています。「神の約束をもってうるさく迫れば、神が迷惑されるなどとは思うな。神はたましいが大声で泣き叫ぶのを好まれ、恵みを施すのを喜ばれる。あなたの求めるよりも、はるかに熱心に、神は聞こうとされる。太陽は照らすのに飽きることはなく、泉は流れることを煩わしいとは思わない。約束を守られるのは、神のご性格である。」

Ⅱサムエル 6章

「ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。」(14節)

 ダビデは神様の前で人々と一緒に喜び踊りました。この箇所に、彼の神様に対する情熱を感じます。彼は王服を脱ぎ、一般の人々と同化して踊りました。日々、王としての役割は果たすけれども、神様の前ではみんな同じという彼のメッセージを感じます。実際、ダビデの姿は王様らしくないと嫌味を言ったミカルにこんなことを言います。「わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」(22節新共同訳)ダビデの賛美に対する姿勢を、心に留める必要があると思います。「神様に喜びを表すためなら、たとい気が変になったと言われてもかまわん。いや、ばかと思われてもよいのだ。」(21、22節)今日は主の日。私たちもそれぞれの立場という服を脱いで、主の前で、心から賛美を捧げましょう!

Ⅱサムエル 5章

「それで、ダビデはバアル・ペラツィムに行き、そこで彼らを打った。そして言った。『主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた。』それゆえ彼は、その場所の名をバアル・ペラツィムと呼んだ。」(20節)

バアル・ペラツィムは「打ち破られる主」という意味があります。私たちの神様は、打ち破られる、ブレイク・スルーの主です。目の前にどんな壁が立ちはだかっていても、神様は打破してくださいます。神様は、今日、私たちの直面している問題の壁を打ち破りたいと願っておられます。ダビデの問題を打ち破った神様は、今も変わらずに、同じように私たちの問題を打ち破ってくださいます。ダビデがこの打ち破られる主を体験することができたのは、彼が神様に伺うこと、つまり、祈ることを大切にしたからです。実際、この大成功を収めた後も、彼は自分の裁量ではなく、再度主に伺って行動しています。ここに鍵があります。

Ⅱサムエル 4章

「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。」(9節)

 ダビデは、彼のいのちを救い出してくださったのは神様だと言うことを理解していました。使徒パウロも同じことを告白しています。「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」(Ⅱコリント1:9,10)LBではこう書いてあります。「・・・自分の無力さを痛いほど思い知らされました。しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神様にお任せしたからです。救い出すことができるのは、神様だけです。」ダビデもパウロも、今の自分があるのは神の恵みであることを理解していました。

Ⅱサムエル 3章

「これらはヘブロンでダビデに生まれた子どもである。」(6節)

 聖書には、はっきりと「多くの妻を持ってはならない。」(申17:17)と、一夫多妻を否定しています。しかし、ダビデは多くの妻をもってしまい、それが多くの問題を彼の人生に引き起こしました。しかし、聖書はダビデの失敗を隠すことなく、そのまま記録しています。私たちは、神様が完全な人しか用いることができないと思います。しかしダビデという人物は本当に不完全な人でした。神様に対する心がある限り、神様は不完全な人を用いてくださいます。この事実は私たちに人に対する健康な見方を与えてくれます。人は私たちを失望させることがあります。人は不完全であり、失敗することがあります。ですから、私たちはイエス様から目を離してはいけないのです。イエス様だけが完全なお方だからです。「主よ、不完全な私たちを用いてくださることを感謝します。」

Ⅱサムエル 2章

「この後、ダビデは主に伺って言った。『ユダの一つの町へ上って行くべきでしょうか。』すると主は彼に、『上って行け。』と仰せられた。ダビデが、『どこへ上るのでしょうか。』と聞くと、主は、『ヘブロンへ。』と仰せられた。」(1節)

 ダビデは神に伺うことなくペリシテ人の地に行ってしまった結果、多くの苦い経験をしてしまいました。今回は、神に伺ってから、ヘブロンへ向かいました。この時からダビデの人生は開けていきます。私たちは自分の目にいい道を選ぶのではなく、神に伺いながら進むことが大事です。神は私たちに将来と希望を与えたいからです。アルファ・コースのニッキー先生は神の導きを知ることが出来る5つの方法があると言います。一、聖書の命令。二、聖霊の強いうながし(祈る時に語られる。強い願い。特別な方法)。三、常識。四、クリスチャンの助言。五、状況的なしるし。これらの五つを見ていくことが必ず助けになります。

Ⅱサムエル 1章

「ダビデは言った。『主に油そそがれた方に、手を下して殺すのを恐れなかった
とは、どうしたことか。』」(14節)

ダビデの命を狙っていたサウル王にとどめを刺した人物に、ダビデは感謝するど
ころか、神の油注ぎを軽視したと裁きました。神の油注ぎはすでにサウル王から
離れていましたが、ダビデはまだサウルがイスラエルの王として油注がれたこと
を尊敬していたからです。この姿勢は大事です。どんな人物であろうと、牧師、
伝道者は神様に教職者として油注がれた人たちです。彼らが誤ったことを行うな
らば、それは悲劇であり、本当に悲しいことです。しかし、私たちがその人物を
引きずりおろす必要はありません。神が必ずされるからです。聖書は言います。
「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私た
ち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)
「主よ、あなたの油注がれた人物に手を下すことがありませんように。」

Ⅰサムエル 31章

「ヤベシュ・ギルアデの住民が、ペリシテ人のサウルに対するしうちを聞いたとき、勇士たちはみな、立ち上がり、夜通し歩いて行って、」(11、12節)

 ヤベシュ・ギルアデの勇士たちは、命をかけてサウル王の死体を取りにいったとあります。彼らはどうしてそこまでしたのでしょうか?サウルが王になって、最初にサウル王が助けた人々がヤベシュの人々でした。(11章参照)彼らはそのことに対する感謝をずっと忘れなかったと考えられます。聖書は言います。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38)イエス・キリストは、文字通り私たちのために身代わりに十字架にかかられ、いのちを与えてくださいました。ヤベシュの人々のように感謝を忘れない者でありたいと思います。

Ⅰサムエル 30章

「しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」(6節)

ダビデは人間的な思いで、ペリシテ人に身を委ねてしまい、イスラエルに敵対して戦いに出なくてはいけないというところまで追い込まれてしまいました。神の憐れみによって、彼らはイスラエルの敵とならずにすみましたが、自分たちの町はアマレク人の略奪にあってしまいました。彼の仲間たちはそんなダビデについに愛想をつかして、彼を殺そうとしました。まさに、どん底をダビデは経験しました。しかし、ダビデはこのどん底の状態で神を見上げることができ、神からの力と導きを受けることができました。神は時として、私たちがどん底の状態に陥ることを許されます。私たちが神以外の何かに依存しようとする時、神は私たちが神以上に信頼しているものを取り除かれます。「しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。」(口語訳)今日は主の日。まず主を見上げましょう!

Ⅰサムエル 29章

「すると、ペリシテ人の首長たちは言った。『このヘブル人は何者ですか。』」(3節)

ペリシテ人アキシュと共にイスラエルとの戦いに出てきたダビデたちを見たペリシテ人の首長たちは言いました。「これらのヘブルびとはここで何をしているのか。」(口語訳)ペリシテ人は神に敵対していた人々で、ダビデたちがいるべき側ではありませんでした。ダビデは人間的な思いで敵の中に身を委ねてしまいました。榎本師はこう言っています。「よく日本の社会運動家の先駆者はほとんどキリスト者であったと言われる。ところが、彼らのほとんどは教会にあきたらず、教会から出て行った。・・・出て行った彼らはどうであったか。今日の社会運動界を見るとき、彼らやその流れをくむ者のほとんどはもはやその指導力を失い・・・キリスト者は頑固なまでキリスト者であるところに今日におけるキリスト者の存在の意義がある。」

「いつもキリストの側に身を置くことができますように。」