pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

詩篇 11篇

「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」(7節)

 1節から3節まで、詩人はこの地上の混乱に関して言及します。

「『法も秩序もあったものじゃない。こうなれば、正しい者は逃げるより手がない』と、人々は言います。」(3節LB)

しかし、詩人はその視点を地上から天に移します。

「しかし、主はいぜんとして聖なる宮に住み、天から何もかも支配しておられます。地上での出来事をことごとく監視しておられます。」(4節LB)

神は確かに今生きておられ、すべては神の御手の中にあります。旧約聖書に出てくるヨセフは、こんなことを言います。

「あなたがたは私に対して災いを企てましたが、じつは、幸いをもたらすために神がそのことを企てられたのです。」(創世記50:20岩波)

目の前の出来事がどんなに災いに見えても、神は幸いをもたらすために用いられるというのです。ですから、詩人のように、地上ではなく、神を見上げて生きる必要があります。

詩篇 10篇

「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます。耳を傾けて、みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。地から生まれた人間がもはや、脅かすことができないように。」(17、18節)

  リビングバイブルでは、こう訳しています。

「主よ。あなたは謙そんな人の望みが何であるか、ご存じです。必ずその叫びを聞いて救いの手を差し伸べ、心に安らぎを与えてくださいます。主はみなしごや虐待されている人たちのそば近くにいてくださるお方です。おかげで彼らは、この世の人間から、二度と脅かされることはありません。」

1節では、詩人は神を遠く感じていました。苦しみのときに、神の不在を感じていました。しかし、最終的に神が実はそば近くにいてくださるお方であることを確信します。詩人を確信に導いたのは、「祈り」であることを心に留めたいと思います。

詩篇 9篇

「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」(10節)

  主は、主に拠り頼む者をお見捨てになるような方ではありません。しかし、私たちは時々揺らいでしまうことがあります。揺るがない信仰生活のためには、主の御名を知る必要があります。主の御名は、聖書の中に散りばめられています。

「エル・シャダイ」という御名は「全能の神」という意味です。

「ヤハウェ・ラファ」は「いやし主」。

「ヤハウェ・シャローム」は「平和の主」。

「ヤハウェ・シャマー」は、「ここにおられる主」。

「ヤハウェ・イルエ」は「備え主」。

つまり、私たちがより頼むお方は、全能であり、いやし、平安を与え、共におられ、私たちの必要を備えてくださるお方だというのです。このお方を、知識としてだけでなく、体験していきましょう。

「主よ、ますますあなたの御名を体験させてください。そして、ますますあなたにより頼む者としてください。」

詩篇 8篇

「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(5節)

浅野順一という牧師は、「劣るもの」と訳されているヘブル語は、「後に立つ」と解釈することができ、神は先に立ち、人間はそのうしろに立つ、神は導き、人はそれに従うという意味となると言います。確かに、これが本来の人間の姿でもあります。神を神として認め、神の導きに従う・・・ここに、人間としての栄光、誉れがあります。8篇の最初の行と最後の行は、同じ文章です。

「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」

「私たちの主、主よ」というのは面白い表現です。実は後半の「主」は、神の名、「ヤハウェ」が使われています。「私たちの主、ヤハウェ」となります。「私たちの主」は肩書きで、「私たちを治める方、統治者」という意味があります。エルサレム途上で用いられた「ちいろば」のように、王なるイエス・キリストに従う人生こそ、栄光ある生き方です。

詩篇 7篇

「私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫るすべての者から私を救ってください。私を救い出してください。」(1節)

 ダビデは自分の中傷者を「獅子」(2節)のようだと言います。興味深いことに、使徒ペテロもこう言います。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」(Ⅰペテロ5:8)

どうやって悪魔は私たちを食い尽くそうとするのでしょうか?私たちを責める事によって食い尽くそうとします。私たちの耳にささやくのです。「あなたは失敗者だ。」「それでもクリスチャン?」「あなたは間違っている」これらは悪魔の言葉です。私たちは、悪魔の火矢のように、日々の生活の中で非難の矢、中傷の矢を受けることがあります。だから、悪魔の言葉にだまされないように、日々、聖書のみことばに触れる必要があります。神様のことばに耳を傾ける必要があります。

詩篇 5篇

「私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。」(2節)

「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」(3節)

とありますので、この詩を「朝の祈り」と一般的に考えられています。一日のはじめを、祈りをもってはじめるということは素晴らしいことです。律法的になる必要はありませんが、朝毎の習慣は、聖書的でもあります。出エジプト16:21にこういう箇所があります。

「彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。」

これは、天から与えられたマナのことではありますが、朝ごとに祈り、聖書のみことばをいただく、というのは、聖書的な習慣だと思います。2節をLBはこう訳しています。

「私は神様以外のだれにも、決して祈ったりしません。」

聖書は「神様だけに頼る」ということを、私たちが学ぶ必要があることとして語っています。

詩篇 4篇

「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」(7節)

 6節にこう記されています。(メッセージ訳)

「どうして、みんな『もっと』ということに飢えているのか?『もっと、もっと』と彼らは言う。」

人間の物欲というものは果てしなく、永遠に満足することはありません。あれさえあれば、これさえあればと思っても、結局は、それを手にしても、また、別のものが欲しくなります。詩人は言います。

「わたしには『十分よりもっと』の神がおられる。」

人の本当の満足は、神との関係の中にあります。間違った場所に喜びを求めているということはないでしょうか?神の臨在の中の喜びは、物質的な繁栄よりも大きな喜びをもたらします。ですからイエス様は言われました。

「財産は天にたくわえなさい。そこでは価値を失うこともないし、盗まれる心配もありません、あなたの財産が天にあるなら、あなたの心もまた天にあるのです。」(マタイ6:20,21LB)

詩篇 3篇

「しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」(3節)

 詩人が感じたように、時として私たちは右も左も敵ばかりのように感じてしまう時があります。神を信じて何になるのかと嘲られてしまう時、私たちの頭はうな垂れてしまいます。しかし、神は私たちのため息を聞いておられます。私たちの涙を数えておられます。神は私たちの頭を高く持ち上げてくださるお方です。神は神の時に、最善の時に、すべてを美しくされます。なぜなら、

「本物の救いは神から来ます。」(8節MSG)

ですから、聖書は私たちに命じます。

「天国のことで心が満たされていなさい。地上のことをあれこれ気に病んではいけません。」(コロサイ3:2LB)

「天国のこと」とは、死後の世界と言うよりも、「神の国」、神の統治を意識するということです。神のみこころで心を満たすということです。なぜなら、最終的に、神のみこころがなされるからです。

詩篇 2篇

「天の御座に着いておられる方は笑う。」(4節)

神様にとってみれば、人間が限られた能力でやっていることは、おかしなことだと思います。ある人が、壁にこう書きました。

「神は死んだ。ニーチェ」

次の日、別の人が、壁にこう書き加えていました。

「ニーチェは死んだ。神」

ボルテールという哲学者は、20世紀になる前に、聖書は「こんな本もあった」という博物館入りすると言いました。私たちは今、21世紀に生きていますが、聖書は、博物館入りするどころか、今も、世界のベストセラーであり、逆に、ボルテールという人は、ほとんどの人はもう知りません。さらに、彼の家は今、聖書協会の事務所になっているそうです。私たちの人生も、これと似ているところがあると思います。いろいろ、自分のない知恵を尽くしてがんばるのですが…。一番、いい方法は、神様に委ねて、膝をかがめて祈ること。天に座すお方を認めるということが大事なことです。

詩篇 1篇

「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(3節)

1節を浅野順一師はこのように訳しています。

「幸いなるかな、悪人の計りごとに歩まず、罪びとの道に立ちどまらず、また嘲る者の座に坐らぬ者。」

ちょうど山上の説教で、イエス様が八つの「幸いなるかな」から始められたように、この詩は始まります。悪人、罪人についての説明はありませんが、「嘲る者」は神のことばを嘲るということだと思われます。なぜなら、正しい者は、神のことばを喜びとしているからです。正しい者は、「水路のそばに植わった木」にたとえられていますが、周囲は枯れ果てた荒野が想定されているのだと思われます。川が流れているために、その木は夏も冬も枯れることなく、いつも青々と茂っていると。浅野師はこう言います。

「義人の願うところは皆成就し、そのなすところは成功するというのである。」