pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

エゼキエル 26章

「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった。』と言ってあざけった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。ツロよ。わたしはおまえに立ち向かう。」(2,3節)
 
 エルサレムの崩壊を喜んだツロに対して、神が裁きを宣告しています。彼らもまた、紀元前332年、アレキサンダー大王によって滅ぼされます。ここでは、人の不幸を喜ぶ姿勢に対して、神が警鐘を鳴らしているとも言えると思います。たとえそれが自分の競争相手が自滅したということであったとしても、私たちはそれを喜ぶべきではありません。箴言にもこういう箇所があります。

「敵が苦しむのを喜んではいけません。失敗したからといって、うれしがってはいけません。そんなことをしたら神様が気を悪くし、彼らを罰するのをやめるかもしれません。」(24:17,18LB)

エゼキエル 25章

「神である主はこう仰せられる。モアブとセイルは、『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない。』と言った。」(8節)

モアブの国が裁かれる原因は、イスラエルの国も、ほかの国もまったく変わらないと言っているからだと言います。現代風に言いなおすならば、キリスト教も他の宗教も同じ、何も違いはないと言っているからだと言います。つまり、このような宗教多元主義の考え方は決して新しいものではなく、昔から存在していたということです。このグローバル世界において「共存」を考えることはとても大切なことです。しかし、根本的な神理解が違うのにもかかわらず、すべて同じとすることはできません。そして今日の箇所が私たちに伝えていることは、それはまた、創造主なる神に対して失礼なことでもあるということです。父なる神、子なる神キリスト、聖霊の三位一体なる神こそ、唯一の神です。

エゼキエル 24章

「あなたのみだらな汚れを見て、わたしはあなたをきよめようとしたが、あなたはきよくなろうともしなかった。」(13節)

神様は私たちの人生がきよめられることを願っています。神様は泥沼のような中から私たちを引き上げ、きよめてくださるお方です。しかし、残念ながら、ある人々はまた、その泥沼に帰って行ってしまい、再び身を汚してしまいます。神様は私たちの意志を尊重されますから、その人の間違った選択に対する報いを受けることを許されます。LBでは、
「わたしはおまえをきよめようとしたが、おまえが拒んだので」
とあります。しかし、それは神様がその人を見捨てたわけではなく、その人が本当の意味で悔い改めて、変わることを願われているからです。神様は、私たちが悔い改めて、神様の助けを求めるならば、いつでも私たちを助ける準備ができています。放蕩息子を待っていた父親のように、待っておられます。

エゼキエル 22章

「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」(30節)
 
 神様は、義なる神とその国の間、破れに立って、とりなしの祈りをする人を捜していると言います。当時のイスラエルの国には、残念ながら見つかりませんでした。今も、この世の悪に対して、嘆くだけでなく、アブラハムのように「滅ぼさないでください」と、とりなして祈る人が求められています。歴史を通じて、人知れず破れ口に立ち、とりなしの祈りを捧げてきた人たちがいて、今があります。自分は無力だと思います。しかし、神はこの国のために祈る人を捜し求められています。破れに立って、この国のためにとりなしの祈りを捧げましょう。
「主よ、日本の国をあわれんでください。イエス・キリストのゆえに、あわれみを注ぎ、リバイバルを与えてください。」

エゼキエル 21章

※ 雪の状況は大丈夫でしょうか?教会の近辺のバスは動いているようです。まだ、足元が悪いところが多々あります。礼拝に来られる際には、お気をつけください。

 

「廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。このようなことは、わたしが授ける権威を持つ者が来るまでは、かつてなかったことだ。」(27節)
 
 権威は神様が授けるものです。広い意味で言えば、パウロがローマ13章で言うように、

「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」

しかし、狭い意味で言えば、真の権威をもつ方は、イエス・キリストです。そして、この箇所は、この世界の終りに神に逆らうすべての権威は絶ち滅ぼされ、すべての権威は本来あるべきところ、メシヤであるイエス・キリストに渡されるということを預言しています。現在、立てられている指導者を尊重し祈ることも聖書が教えているように大切なことです。しかし、真の権威はイエス・キリストにあることを認め、イエス・キリストが自分を、この地を治めてくださるように生きることも大切です。今日は主の日、王の王なる主に礼拝を捧げましょう!

エゼキエル 20章

「そこで、私は叫んだ。「ああ、神、主よ。彼らは私について、『彼はたとえ話をくり返している者ではないか。』と言っています。」」(49節)

エゼキエルのもとに、イスラエルの長老たちが主の御心を知ろうとしてやってきました。その彼らに対し、神様はイスラエルの人々がどれほど神様をないがしろにし、数え切れないほど裏切りを続けてきたかということを語り、その後の厳しい現実を宣告します。ところが神様の御言葉を聞きに来たはずの長老たちは、それを現実とは思わず、エゼキエルがたとえ話を繰り返し話しているとしか受け止めませんでした。御言葉をきく私たちの姿勢に対する警告であるとも受け取ることができます。真剣に語られている神様の御言葉に対して、真剣に聞く姿勢が求められるのではないでしょうか。でなければ長老たちのように、ただの「お話」で終わってしまいます。

エゼキエル 19章

「火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。」これは悲しみの歌、哀歌となった。」(14節)

メッセージという訳では、これは「ブルース」の歌詞だと訳しています。それほど歌詞自体には希望を見出せません。しかし、私たちが

「何に信頼しているか」

という大切な問いかけがなされています。この19章では、強いライオンと強い枝をもつぶどう園が登場します。これはダビデ王朝を象徴していると考えられます。しかし、ライオンも連行され、ぶどう園も引き抜かれてしまいます。私たちを救うことができるのは、強い経済でもなく、強い政府でもありません。イエス・キリストです。イエス・キリストに信頼する者は失望することはありません。イエス・キリストは言われます。

「あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」(ヨハネ16:20)

エゼキエル 18章

「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。」(2節)
 
面白いことわざですが、ポイントは、自分が問題の中にいる原因は父親にあるという意味です。自分自身の問題を棚上げにして、父親の世代のせいにしていたことを、神は否定されました。

「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ。―あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(3,4節)

神のポイントは、誰かのせいにしてはいけないということです。

「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。」(21節)

本人の選択が問われます。

エゼキエル 17章

「このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。主であるわたしが語り、わたしが行なう。」(24節)

22‐24節は、「野のすべての木」が国々を象徴していて、終わりの時に、国々がメシヤ(若枝)の支配に服するという約束です。この約束を期待する理由は、最後の部分にあります。

「主であるわたしが語り、わたしが行なう。」

岩波訳ではこう訳しています。

「わたしヤハウェが〔これを〕語ったのである。わたしが〔これを〕実行する。」

神様が語ったならば、神様が責任をもって実行されます。神様がご自身の言葉に責任をもたれます。ですから、聖書のみことばを宣言して祈ることには意味があります。「枯れ木に芽を出させること」ができる神様は、私たちの人生にも新しいはじまりを与えることができます。どんなに未来が枯れ木のように見えても、主に期待しましょう。

エゼキエル 16章

「その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。―神である主の御告げ。―ところが、あなたは、自分の美しさに拠り頼み、」(14、15節)

16章の前半は、イスラエルの子たちが神に見出されるまでどんなに望みのない状態だったかが記されています。神はイスラエルの人々を洗いきよめ、祝福し、美しくしました。しかし、残念ながらイスラエルの人々は、その美しさに拠り頼んで、神を忘れ、霊的な姦淫の罪に陥ってしまいました。これは今も起こりうることです。神が誰かを祝福し、その人が自分では到達できないような地位に立てることがあります。しかし、残念ながら、あたかも自分の力で達成したかのように、神の賜物を神の国のためではなくこの世のために使ってしまうことがあります。神に栄光を帰すために賜物が与えられたことを忘れることがありませんように。