pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ヨハネ 3:22-36

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(3:30)

バプテスマのヨハネは人々にイエス様を指し示し、

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(1:29)

と言いました。その結果、人々はヨハネを離れ、イエス様の方に行ってしまいました。ヨハネの弟子たちがそのことをヨハネに告げるとヨハネははっきりと言いました。

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

私たちの姿勢も、このバプテスマのヨハネと同じ姿勢であるべきです。イエス・キリストを指し示し、イエス・キリストが盛んになり、自分は衰えなければなりません。イエス・キリストは大きくなり、私は小さくならなければなりません。すべての栄光はイエス様に帰されなければなりません。主の栄光だけが光り、輝きますように。

ヨハネ 3:1-21

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(3:8)

大和カルバリ―チャペルの大川先生は、文語訳の「風は己が好むところに吹く」という訳から、聖霊様が好みがあることに気が付いたと言います。聖霊様は愛し合う場所は好まれるが、裁き合う場所は好まれないと。だから、裁く教会は砂漠になると言います。

「牧師は信徒を裁かない。信徒は牧師を裁かない。信徒同士は裁き合わない。」

これが教会成長の秘訣だと言います。愛し合い、赦し合い、仕え合う教会になるなら、聖霊様が縦横無尽に好んで吹いてくださると言います。聖霊様に好まれる教会になることができますように。

ヨハネ 2:1-25

「しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。」(2:9)

カナの婚礼でぶどう酒がなくなってしまった時、イエス様は水をぶどう酒に変える奇蹟を行いました。この奇跡を間近で体験したのは、イエス様に言われた通りに水をくんだ手伝いの者たちでした。彼らが奇跡をおこなったのではなく、イエス様が奇跡をおこなわれました。しかし、彼らの働きを用いて、イエス様は奇蹟を行われました。イエス様は今も、私たちを用いて奇跡の御業を行おうとされています。私たちが忠実に主のみことばに従う中で、神の奇蹟は行われます。それは、水をくんだしもべだけが知ることができる世界です。

ヨハネ 1:29-51

「ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」」(1:46)

ナザレはヘロデ大王の息子ヘロデが再建したセッフォリスというギリシャ・ローマ風の大都市に近い村で、旧約聖書にも、歴史家ヨセフスの記述にも出てこない小さな村でした。それでナタナエルは、ナザレの人が

「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」(45節)

のはずがないと考えました。そんな偏見に凝り固まっていたナタナエルに、ピリポは言いました。

「来て、そして、見なさい。」

イエス様のもとに来て、イエス様を見なければ、体験しなければ、分からない世界があります。今、ナタナエルのように肉眼でイエス様を見ることはできません。しかし、聖霊によって、神の愛を体験することができます。

「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)

ヨハネ 1:1-28

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子3しての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(1:14)

バビロン捕囚期の預言書、エゼキエル43章にこう記されています。

「すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。」(エゼキエル43:2)

新しく再建された神殿に神の栄光が帰還し、主の栄光が神殿に再び満ちる幻が記されています。その後、神がこう言われます。

「わたしは永遠に彼らの中に住む。」(エゼキエル43:9新改訳二〇一七)

つまり、神の御子、イエス・キリストが人となって、この地に生まれてくださったことによって、このエゼキエルの預言は成就したことを、ヨハネは伝えたかったのだと思われます。そして、真の神殿はイエス・キリストであり、恵みとまことに満ちていると。
今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

ルカ 24:36-53

「こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(24:46,47)

イエス様は聖書に書いてあることを次のようにまとめました。

「イエス・キリストはあなたのために十字架で死なれた。

そして、死人の中から復活された。

救いの御業は成し遂げられた。

今、悔い改めてイエス・キリストのもとに立ち返る人は、だれでも罪が赦される。

そして、この知らせはあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」

聖書を読む時に、私たちはこのメッセージを理解する必要があります。もっとも、イエス様は弟子たちがこのメッセージを理解することができるように、

「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」(45節)

とあります。

「聖霊なる神様、どうか、理解できるように、私たちの心を開いてください。」

ルカ24:1-35

「そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」」(24:32)

燃えるような心は、イエス・キリストとの人格的な関係の中で生まれてくるものです。イエス様に対する情熱を失っていると感じている時というのは、たいてい、イエス様との人格的な交わりの時間を失っている時でもあります。私たちはただ消費するためにこの世に生きているわけではありません。神は私たち一人一人を目的をもって造られました。しかし、神の使命に生きていくためには、神からの燃えるような思い、情熱(パッション)が必要です。それは、日々の神との関係から生まれてくるものです。神のみことばである聖書を読んでいる時に、聖霊なる神は語られ、私たちの心はうちに燃えるのです。
「主よ、私たちの心をもう一度燃え上がらせてください。あなたの情熱で私を燃やしてください。」

ルカ 23:26-56

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」(23:34)

イエス様は、自分をあざけり、罵る人々を前にして、何も言い返すことはありませんでした。日本的には、「無念」という場面ですが、イエス様は違いました。それでもなお、目の前で罵声を浴びせるその人々を愛し、とりなしの祈りをされたのです。自分に対して、いいことをしてくれる人のために祈ることはそんなに難しいことではありません。しかし、自分を傷つける人のために、裁きが下るようにではなく、とりなしの祈りをするということは、とても難しいことだと思います。しかし、神の霊はそのような人々のために祈るように私たちを導き、力を与えてくださるお方です。なぜなら、まさにイエス様をあざけっていたのは私たちであり、イエス様の恵みのゆえに私たちは今があるからです。

CGNTV

小山英児牧師の説教がCGNTVビジョンタイムという番組で放映されています。

番組名: 小山英児牧師のビジョンタイム
放送開始日: 2018 年 4 月 17 日(一週間に一編ずつ放送)
■本番放送 毎週火曜日 朝10:40
■再放送 木曜日 昼 3:30、 金曜日 夜 10:20
視聴方法: 衛星放送(専用アンテナ)・インターネット LIVE 放送・モバイルアプリによる LIVE 放送
■インターネット: http://japan.cgntv.net ■アプリ(Apple):http://apple.co/1KKMnOA ■アプリ(Google play):http://bit.ly/1IiR7VL
映像アップロード:放送日の翌日以降にホームページへ映像がアップされます