pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

使徒 4:1-22

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(12節)

グローバル化の影響もあり、私たちは他宗教との共存を真剣に考えなければならない時代に生きています。信教の自由は国家として保障され、互いに尊重される必要があります。それは受動的にも保障されるべきですが、能動的にも保障される必要があります。私たちは自分たちの信仰を公にすることも保障される必要があります。他宗教を信じる人たちを尊重しつつも、私たちはイエス・キリスト以外には救いはないことを公に告白し続ける必要があります。イエス・キリストを信じなければ人は救われないということは聖書が語る真理であり、本質だからです。LBはこう訳しています。「この方以外には、だれによっても救われません。天下に、人がその名を呼んで救われる名は、ほかにないのです。」

使徒 3:1-26

「神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」(26節)

ウィザリングトンという学者がこんなことを言っています。

「イエスはありのままのあなたを愛しているが、そのままで受け入れてはいない。イエスはあなたを変えたい。」

もし、私たちがこの世の価値観のままに生きているならば、必ずふるいにかけられる時がきます。私たちが神の国の価値観に立ち返るようにされます。聖書は言います。

「愛する皆さん。この地上では、あなたがたは単なる旅人であり、一時の滞在者にすぎないのですから、あなたがたのたましいに戦いをいどむ、この世の快楽から遠ざかりなさい。」(Ⅰペテロ2:11LB)

神がまず、神の御子、イエス・キリストを遣わしてくださいました。神の国の価値観に生きることを選択できますように。」

使徒 2:22-47

「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。」(43節)

初代教会の特徴の一つは「恐れ」でした。神に対する健康的な「恐れ」が生じた結果、多くの不思議としるしが行われていたという事実を、私たちは心に留める必要があります。もちろん、神は恵みに満ちておられますが、同時に聖なる神です。C・S・ルイスはナルニア物語でアスランというライオンでこの点を描写しています。物語の中でビーバーはこう表現します。

「もちろん、あの方は安全ではありません。けれどもよい方なのです。」

イエス・キリストは私たちにとって安全な方ではなく、よい方という認識はとても重要です。なぜなら、私たちはイエス・キリストを恐れ、ひざまづくべき存在だからです。

「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)

使徒 1:23-2:21

「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。」(2:1)

「五旬節」が原文のギリシア語でペンテコステになります。ペンテコステの特徴は、「皆が同じ場所に集まっていた」(新改訳二〇一七)。二〇世紀初頭にアメリカ、ロサンジェルスのアズサ・ストリートで起きた出来事もまさにこれでした。黒人も白人もアジア人も、男性も女性も皆が同じ場所に集まり、聖霊に満たされる体験をしました。今も、世界各地でリバイバルと呼ばれる現象が起きる時はいつも、教団教派の壁を越え、民族主義の壁も越え、キリストにあって同じ場所に集まって、神様の素晴らしい御業を体験しています。「大事なことはキリストの御名がこの日本で崇められることである」と六〇年ほど前にオランダの神学者は日本の教会に訴えました。私たちもその日を夢見て、本質は一致、本質以外は寛容、すべてのことは愛をもって協力し合っていくことができますように。

ひめゆりの塔

今回の沖縄滞在の折、ずっと行きたいと思っていたひめゆりの塔を訪れることができました。幼いころ彼女たちを題材にした映画を見たことがあり、様々な場面が私の脳裏に鮮明に焼き付いていました。実際に使われていた沖縄陸軍病院第3外科豪は入り口をのぞき込んでも真っ暗で、皆がはしごを使って上り下りしていたことを知り愕然としました。米軍が沖縄に上陸し、戦局は悪化の一途を辿り、現在ひめゆりの塔が建っている第3外科豪は終戦間近の6月19日朝の攻撃で96名のうち89名が死亡しました。沖縄戦での日本の死者は12万人以上。アメリカ軍の死者は2万人以上。洗脳教育の恐ろしさ、リーダーの責任の重さを今まで以上に感じる機会となりました。不完全な私たち人間が、クリスチャンが、どうすれば地の塩・世の光としてこの世界の希望となることができるのか。沖縄戦での数々の証言を資料館で読みながらイエス様にのみ希望があることを、イエス様にしか希望はないことを心に刻む、静かな祈りの時間となりました。
(小山晶子牧師夫人)

使徒 1:1-22

「そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていた・・・」(15節)

聖霊が臨んで初代教会が誕生する直前、百二十名ほどの人が一緒に集まって祈っていました。教会はそこからはじまりました。私たちの教会では、この箇所から百二十名礼拝を祈り求めています。百二十名ほどの人たちが礼拝に集まり、共に祈り、賛美し、礼拝を捧げていく中で、神様が必ず素晴らしいことをなされると信じます。集まることに意味があることは次のイエス様の言葉からも明らかです。

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19,20)

今日は主の日です。共に集まり、主に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 21:1-25

「ペテロは彼を見て、イエスに言った。『主よ。この人はどうですか。』イエスはペテロに言われた。『わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。』」(21,22節)

私たちはすぐ周りと比較してしまう傾向があります。ペテロもそうでした。彼はイエスから、彼の人生に迫害が待ち受けていることを告げられた時、「ヨハネはどうなのですか?」と尋ねました。イエスの答えは、「ヨハネにはヨハネの使命があるのだから、あなたはヨハネと自分を比べるのではなく、わたしにただ従ってきなさい」ということでした。これは信仰生活においてとても大事な姿勢です。「あの人がこうするから、私もこうしよう」、「あの人がこうしないから、私もしない」というのは、イエスが望まれている信仰姿勢ではありません。神との一対一の関係を築くことを求められています。

ヨハネ 20:10-31

「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。」(22節)

キリストの復活は「新しい神の週」が始まったことを証しています。

「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(23節)

という意味は、今までとはまったく異なった生き方のことです。今までの「やられたらやり返す」というような古い生き方ではなく、「愛と和解、癒しと希望」をもたらす新しい生き方のことです。イエスはこの新しい世界に生きるためには、聖霊が必要であることをよく知っていました。それで、弟子たちに息を吹きかけて、

「聖霊を受けなさい。」

と言われました。イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた神の国に生きていくために、聖霊の力が必要です。それで初代教会から伝わる祈りは「聖霊様、来てください」です。今、聖霊に満たされるように祈りましょう。

ヨハネ 19:28-20:9

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(19:30)

「完了した。」

という単語は、

「完済した」

という意味です。請求書に書く

「支払済み」

という単語です。請求書は、すでに処理されました。支払いは終わりました。イエスの十字架の御業は完璧でした。「完了した」というのはまた、

「完成を告げられた」

という意味もあります。創世記の2章で、神が天地万物を創造された後、このように記されています。

「それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。」(創世記2:2)

イエス・キリストの十字架の死は、神がなさっていた新しい創造のわざの完成でもありました。ですから、使徒パウロもこのように言います。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者(新しい創造)です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

ヨハネ 19:1-27

「祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。」(19:6)

「十字架につけろ」と激しく叫んだのは、神殿関係者であったというのはなんという皮肉でしょうか。本来、神の家であるはずの神殿に、神の御子を歓迎すべき神殿関係者が、拒絶したというのです。否、神殿関係者が率先して神の御子を十字架につけたのです。無知のゆえでしょうか?保身のためでしょうか?いずれにせよ、少なくとも彼らは「十字架につけろ」と叫ぶことによって正しいことを行っているという自覚をもっていました。「自分が絶対に正しい」という姿勢は人を盲目にします。伝道者の書にこう記されています。

「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。」(7:16)

唯一絶対に正しいのは、神だけであることを認め、正しすぎないように気をつける必要があります。