マタイ 26:6-16

「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」(26:7)

問題は「非常に高価」だったということです。

彼女にとって、イエス様の存在がそれ以上に価値があったということです。

「イエス様、あなたはその価値があるお方です!」と、彼女は告白しているのです。

礼拝を英語ではワーシップ(Worship)と言います。

それは価値(worth-ship)を認めることです。

文字通り、彼女はイエス様を礼拝したのです。

残念ながら、イエス様の弟子たちはこれを見て、

「無駄なこと」

だと批判しました。

しかしイエス様は言われます。

「わたしに良いことをしてくれました。」

聖書は言います。

「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(1コリ15:58)

ユダ 17-25

「しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」(20,21節)

原文ではこの文章の命令形の動詞は「保ち」だけ(後は分詞)です。

神が命じているのは、神の愛のうちに自分自身を保つことです。

そのために、三つのことが挙げられています。

一、聖なる信仰によって教会を建て上げること。

教会を建て上げる働きに携わることを通して、保つことができます。

二、聖霊にあって祈る習慣を身につけること。

神の臨在の中で祈る習慣を身につけることによって、保つことができます。

三、主イエス・キリストを待ち望むこと。

主がいつ来られてもいいような生活を心がけることによって、保つことができます。

今日は主の日(棕櫚の主日)。共に、主に礼拝を捧げましょう。

すかなごっそ

ユースキャンプが横須賀の宿泊施設で行われたので、送迎のため私も久しぶりに三浦半島に行ってきました。

NHK大河ドラマで鎌倉時代を扱っていたこともあり、「三浦」に対する関心は爆上がり。

(衣笠で牧師をやっている三浦君ももしかしたら三浦の子孫なのでは、、、?)などと妄想を楽しみつつのドライブともなりました。

もう一つのお楽しみは「すかなごっそ」。

ここは三浦にある大型農産物直売所で特に旬の三浦で採れた野菜がリーズナブルに購入できます。

わたしはずっと「すかなごっそ」は「さかなごっそり」の略だと思っていたのですが調べてみたら「よこすかの大地に育まれた新鮮野ごちそうを味わってほしい」という思いから生まれた造語なのだそうです。

魚が全然売られてないからおかしいとは思ってたんですけどね、、、。

おいしい春キャベツや掘りたての筍などを手に入れて帰ってきました。

春本番を迎え、様々な場所で命の息吹を感じる今日この頃。

それぞれ新しい年度を迎え、期待と不安が入り混じっているかもしれませんが神様の恵みが変わらずあることをいつも感じることが出来ますように。

(小山晶子牧師夫人)

ユダ 1-16

「愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」(3節)

信仰のために戦う必要があります。

聖書は言います。

「神を信じるすべての者に与えられた真理のことばを守るために、勇敢に戦ってほしいということです。」(LB)

いつの時代も、「唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定している」(4節)人たちがひそかに忍び込んできます。

イエス・キリストの十字架の御業を否定する人たちと戦う必要があります。

イエス・キリストの復活を否定する人たちと戦う必要があります。

「彼らはいつも不平を言うだけで、ただ欲望のままに歩んでいます。どんな悪事でも平気で行い、大口をたたき、彼らが少しでも人をほめるとすれば、相手から何かをもらおうという魂胆がある時だけです。」(16節)

1サムエル 31:1-13

「そこで勇士たちはみな立ち上がり、夜通し歩いて行き、サウルの死体と息子たちの死体をベテ・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに帰って来て、そこでそれらを焼いた。」(31:12)

サウル王は、神に捨てられ、悲惨な最期を迎えました。

しかし、どんなに問題だらけであっても、サウル王は神に油注がれた者として敬意をもって葬られることになります。

勇士たちは立ち上がり、夜通し歩いて、サウル王と息子たちの死体を取り、運んできて、埋葬しました。

サウル王は在位中、不名誉な行為をしましたが、王としての立場は名誉あるものとして扱われました。

それは、神の油注ぎに対する敬意でした。

ですから、ダビデは彼を尊びました。

勇士たちも尊びました。

私たちも神を恐れ、すべての人を敬うことが求められています。

「すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。」(1ペテロ2:17)

1サムエル 30:16-31

「ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。ともに同じく分け合わなければならない。」」(30:23,24)

ダビデの部隊の二百人の者は疲れきって前進を断念しました。

ダビデと一緒に行って戦った四百人の中に、意地悪な人がいて、一緒に行かなかった人には戦勝品を分けることはできないと言いました。

すると、ダビデは神の恵みをそのように扱ってはいけないと注意します。

神の恵み、福音を理解しているならば公平な扱いをするものです。

イエス様は言われます。

「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」(マタイ10:8)

1サムエル 30:1-15

「しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った。」(30:6)

ダビデたちは戦場を離れて、自分たちの本拠地に帰ってきました。

しかし、彼らが出陣していた間に、アマレク人が侵入し、彼らの街を焼き、家族は捕虜として連れ去られていました。

家族を失った兵たちの苦々しい思いはダビデに向かいました。

その時、ダビデは神を信頼することによって自らを力づけました。

自分の力ではもう先に進めないと感じる時があります。

ダビデは、自らの力ではなく、主によって自分自身を励ましたと言います。

「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。」(ゼカリヤ4:6)

主によって自分自身を励ましたダビデがまずしたこと、それは、自分がどうすべきか主に尋ね求めることでした。

聖書が教える失望への対処、それは、主によって自分自身を励まし、神のみこころを尋ね求めることです。

神は私たちを励まし、私たちを導かれます。

1サムエル 29:1-11

「ダビデはアキシュに言った。「私が何をしたというのですか。あなたに仕えた日から今日まで、しもべに何か過ちでも見出されたのですか。わが君、王様の敵と戦うために私が出陣できないとは。」」(29:8)

二七章で、ダビデはサウル王が信用できず、イスラエルに敵対しているペリシテの地に行きました。

サウル王のダビデに対する敵意を知っていたペリシテの王はダビデを歓迎しました。

この時、ダビデが神に祈ったということは記されていないので、ダビデが自分の考えでそうしたことが分かります。

その結果、ダビデの人生は嘘に塗り固められ、自らを苦しめることになります。

その決定的なのが、神の民であるイスラエルと戦うために、ペリシテ人たちと一緒に出陣するということでした。

ダビデのジレンマは、何もすることなく解決しました。

ペリシテ人の領主たちがダビデを拒絶したのです。

ダビデの失敗にも関わらず、神が介入されました。

聖書は言います。

「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。」(2テモテ2:13)

キリストは私たちを見放すことも、見捨てることもありません。

1サムエル 28:15-25

「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで、私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」(28:15)

エン・ドルの霊媒者、この箇所の解釈は二世紀の頃から難解とされてきました。

申命記18章にあるように、霊媒が実際にまやかしでないのかどうかは別にしても、聖書は明確に禁じています。

サウル王にとって最後の望みは神ではなく、自分に油を注いでくれた預言者サムエルでした。

「何が何だか分からない神より、人間のほうが具体的指示に富んでいる」と考えたのかもしれません。

私たちも気をつけないと、このような短絡的思考に陥ることがありえます。

聖書の中から、神が語られることを聞こうとするよりも、いわゆる『預言者』と呼ばれる人から、具体的指示を求めたくなると思います。

このエン・ドルの霊媒者が、ある意味、特別に用いられたように、その『預言者』と呼ばれる人物を特別に用いて語られるかもしれません。

しかしそれは『死のことば』です。

散り際

一週間私たちを楽しませてくれたアーモンドの花は今まさに散り際を迎えています。

決して数は多くありませんでしたが、本物に勝るものはありません。

よく見ると既に新芽があちこちから顔を出しています。

これもまた一興。

道路側のチューリップも次々にさきはじめました。

一気に開花が加速した川沿いのソメイヨシノも本当に綺麗です。

春は様々な変化が環境にも生活にも起こりますが、変わらない神様の愛と導きに信頼して新年度を迎えていきたいと思います。

 さて、今日の午後は賛美奉仕のための学び会を予定しています。

コロナの期間はなかなかこういう機会も持てませんでしたが少しづつ教会も日常を取り戻しつつあります。

当たり前ができる日々を感謝しつつ、この数年で傷んでしまった世界の中でのキリスト者の役割をそれぞれが遣わされる場所で果たしていくことができることを祈ります。

そして私たちのこの世での散り際が、希望の新芽を見ることができるものであればと思うのです。

必ず訪れる人生の散り際を意識して、今週も一日一日を大切に歩んでいきましょう!

(小山晶子牧師夫人)