詩篇 55:1-15

「神よ。私の祈りを耳に入れ、私の切なる願いに、耳を閉ざさないでください。私をみこころに留め、私に答えてください。私は悲嘆に暮れ、泣き叫んでいます。」(55:1,2)

「切なる願い」と訳された単語(テヒンナー)は、神の「恵み」(ヘーン)を願うことです。

人は神の恵みが必要です。

「私は悲嘆に暮れ、泣き叫んでいます」をメッセージ訳は「私は本当にあなたが必要です!」(I really need you.)と訳しています。

私たちが苦しみ、嘆き、さまようのは、神が必要であることを私たちが認識するためかもしれません。

私たちは、神が必要な存在だからです。

絶望の中にいたダビデは、とにかくどこか遠くに行きたいと願います。

小林和夫師はこのように解説します。

「詩人は・・・町から逃れて、安全な荒野に行くことを願ったが、苦悩からの自由は、場所を変えたり逃げだしたりすることでは解決しない。」

聖書が教える解決策は「祈り」です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 54:1-7

「私は心からのささげ物をもってあなたにいけにえを献げます。主よあなたの御名に感謝します。すばらしい御名に。」(54:6)

「心からのささげ物」と訳された単語は、義務としてではなく、自発的に捧げるささげ物という意味があります。

7節をLBではこう訳しています。

神はすべての苦しみから私を救い出し、敵を蹴散らしてくださいます。

原文の動詞は完了形ですが、小林和夫先生は、これは「期待の確信を表す完了形」と説明しています。

要するに、現状はまだ何も変化していないように見えるのですが、神はすでに救い出してくださったということです。

これが、信仰の世界です。

私たちは、すでに起きた奇跡のゆえに神をほめたたえるだけでなく、まだ起きていない奇跡についても、すでに起きたかのように神をほめたたえるのです。

なぜなら、神は信実なお方であり、神が約束を果たしてくださることを私たちは知っているからです。

詩篇 53:1-6

「ああイスラエルの救いがシオンから来るように。神が御民を元どおりにされるときヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。」(53:6)

原文を直訳しますと、

誰が与えてくれるか、シオンから、イスラエルの救いを

となります。

誰が与えてくれるか?

これは大切な質問です。

「シオン」は、エルサレムにある神殿の丘のことです。

つまり、神の臨在の場所、そこから神が来られて、助け、祝福してくださいますようにという祈りの言葉です。

誰が「救い」を与えてくれるか?

神だけが「救い」を与えてくれるというのが答えです。

神は天から人の子らを見下ろされた。」(2節)

と言います。

しかし、神に背いていない人間などいません。人々は罪にまみれ、芯まで腐りきっています。正しい者は一人もいません。」(3節LB)

と言います。

罪を認めることができないことが、人間の根本的な問題です。

ですから神が行動を起こされました。

イエス・キリストを与えてくださいました。

詩篇 52:1-9

「しかし私は神の家に生い茂るオリーブの木。私は世々限りなく神の恵みに拠り頼む。」(52:8)

ダビデがより頼むと言った「神の恵み」と訳された単語は、神の契約に対する信実の現れ、神の信実の愛です。

神の信実の愛、神の尽きることのない愛に信頼する人は、「神の家に生い茂るオリーブの木」のようだと言います。

もっとも、パッション訳ではこのように訳しています。

しかし、私は生い茂るオリーブの木のように、神の家で油注がれた者。

「神の家」、すなわち、教会、神の臨在の中で、人は「油注ぎ」を体験します。

「油注ぎ」とは何か、いろいろな意見が分かれるトピックですが、オリーブ油は神の家では聖なる目的のために使われました。

つまり、聖なる目的のため、すなわち神の働きをするために神から特別に注がれるものです。

それは、言葉に表すことが難しいのですが、求める者に聖霊様が特別に臨んでくださるような体験であり、力が与えられる体験です。

詩篇 51:1-19

「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。」(51:17)

「砕かれた霊」「砕かれた、悔いた心」、すなわち、「打ちのめされた心」が神へのいけにえだと言います。

神からの霊に満たされるためには、人は、自分の霊、心を神にいけにえとして捧げる必要があるということです。

それはまた、打ち砕かれた夢、砕け散った思い、壊れた心を、神へいけにえとして捧げることでもあります。

興味深いことに、メッセージ訳では、こんな訳をしています。

「自分のプライドが打ち砕かれた時、私は神を礼拝することを学んだ。愛を受け入れる準備ができている打ち砕かれた心の人生は、一瞬たりとも神に気づかれないことはない。」

砕かれるような体験は、できれば避けたいものですが、木っ端微塵にされるような体験を通して、私たちは神を礼拝することを学びます。

詩篇 50:16-23

「感謝のいけにえを献げる者はわたしをあがめる。自分の道を正しくする人にわたしは神の救いを見せる。」(50:23)

詩人は十戒に違反していると告発します。

特に、

「盗んではならない。」

「姦淫してはならない。」

「偽りの証言をしてはならない。」

という戒めに違反していると。

イスラエルの民は、口では十戒を暗誦していながらも、実際は、十戒に違反していました。

神はこの現状を黙認することはないと言います。

口先だけの信仰、形式主義者、神を忘れる道徳的悪者を、神は告発し、裁きを下されると言います。

わたしがおまえと等しい者だとおまえは、思っていたのだ。」(21節)

とあるように、神は神であり、人は人であることを、謙遜に認める必要があります。

広い意味で、これは最後の審判に関する警告のようにも聞こえます。

神は言われます。

神を忘れ去った者へ、最後のチャンスを与えよう。」(22節LB)

最後のチャンスはイエス・キリストです。

詩篇 50:1-15

「感謝のいけにえを神に献げよ。あなたの誓いをいと高き神に果たせ。苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」(50:14,15)

まことのいけにえは、「感謝」と「呼び求める祈り」です。

LBで14節をこう訳しています。

わたしが求めているのは、真心からの感謝」。

メッセージ訳では、

賛美する人生こそ、わたしを敬っている」。

私たちの感謝、賛美は、神に喜ばれ、神に栄光を帰します。

神と取り引きをしようとするのではなく、感謝を捧げていくときに、私たちは神に喜ばれ、神の臨在を体験します。

神が求めているまことのいけにえは、感謝と賛美のいけにえです。

また、15節をLBではこのように訳しています。

苦難のとき、わたしを頼みとしてほしい。そうすれば、わたしは助けの手を差し伸べ、あなたがたはわたしをほめたたえるだろう。

信頼の心から出る「呼び求める祈り」こそが、まことのいけにえということです。

雪化粧の中

3月8日、英児先生と嗣音兄の卒業式に出席&寮の荷物を撤収するため東京基督教大学に向かいました。

雪が降るほど寒い朝、どうかスリップ事故などありませんようにと祈りながらの出発。

予定通りに到着でき車を降りるとチャペル前の芝生にうっすらと雪が。

早咲きの桜と雪化粧、そこにメジロが何羽も忙しなく動いて何とも趣があります。

28年前わたしはTCUを卒業し、その数日後の3月9日、このチャペルで結婚式をあげました。

いまその同じ場所に家族全員がいて、しかも次男と夫の卒業を見守っているという状況はとても不思議で、そしてとても嬉しい感謝いっぱいの時間でした。

聖書の御言葉と祈りによって送り出され、アブラハムのようにどこに遣わされていくかわからないという信仰の訓練の中巣立っていく卒業生たちは28年前のわたし自身の姿。

先の見えない嵐のような日々の中でただただ必死に主にしがみついてきたように感じますが、そうじゃない、主がわたしの全身を離さず抱きしめ続けてくださったから今日の日を迎えられたのだと。

主に信頼するものは決して失望させられることはありません。

 (小山晶子牧師婦人)

詩篇 49:13-20

「人は栄華のうちにあっても悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい。」(49:20)

小林和夫先生は、13節から20節の教訓詩をこのようにまとめています。

「富に頼る者はよみに滅び、主に頼る者は主の手に受け入れられる。人の持つ、富も栄誉も一切は死によって限られているのである。悟るべきものを悟ることが人生の本当の意義である。」

考えてみますと、「富」は本当に不平等です。

その人が生まれた国、家、環境によって、すでに、持てる人と持っていない人が存在します。

しかし、死ぬ時は、誰一人その富を持っていくことはできません。

死は、財力や富という社会的価値を無意味化してしまいます。

聖書は言います。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)

神は、その人が、その与えられた富をどのように用いてきたかを問われます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 49:1-12

「たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。」(49:8)

「たましいの贖いの代価」は自分の生命に関わる償いのことです。

聖書は、すべての人は罪を犯したと言います。

聖書の言う罪とは、刑法の話ではなく、神に背を向けることです。

人は、最初の人であるアダムとエバが、神に背を向け、神が食べてはならないと命じられた善悪の木の実を食べてから、ずっと、神に背を向け続けています。

誰一人、神に「罪の代価」を支払うことはできません。

自分で支払うこともできないですし、他の人のために支払うこともできません。

たましいを贖うための代金は、あまりに高く、あきらめるしかないと言います。

だから、神はそのひとり子イエス・キリストをこの世界に与えられました。

イエス・キリストは、私たちのために十字架にかかり、死なれることによって、「たましいの贖いの代価」を支払ってくださいました。

それは、「たましいの贖いの代価」を支払うために十分でした。