2列王記 6:15-23

「すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。」(6:16)

シリアの王は、戦略を見抜く預言者エリシャを捕まえるために馬と戦車と大軍を彼の町に送り、包囲させました。

それを見た若者はエリシャに言います。

「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう。」

それに対して、エリシャは言います。

「恐れるな。私たちの軍勢は彼らよりも多く、強いのだから。」(16節LB)

そして、エリシャは祈ります。

「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」

神が彼の霊の目を開かれたので、火の馬と火の戦車がエリシャたちを取り巻くように山に満ちているのが見えました。

私たちもこの若者のように恐れることがあります。

だからこそ、この若者のように、霊の目が開かれるように祈る必要があります。

聖書は言います。

「あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。」(1ヨハネ4:4)

2列王記 6:1-14

「神の人は言った。「どこに落ちたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切ってそこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。」(6:6)

預言者エリシャの働きは拡大し、彼と一緒にいる仲間たちの数が増えました。

それで、ヨルダン川の近くに新しい場所を建てることになりました。

「ところが、木を切っていた一人が斧の頭を川に落としてしまったのです。「先生、大変です。あの斧は借り物なのです。」」(5節LB)

神のために働いているのに、どうしてこんなことが起こるのだろうと思うことが起こったりします。

しかし、エリシャが一本の枝をそこに投げ込むと、重い斧の頭を浮かばせました。

要するに奇跡が起こったのです。

これは、神が確かに今も生きて働いておられることを示しました。

彼らを励ましたに違いありません。

マイナスは必ずプラスになります。

主の御名を呼び求めましょう!

TPKF大会

8月13日から15日まで滋賀県でTPKF大会が行われます。

対面では実に4年ぶり。

オンラインでの大会は継続して行われていましたが、コロナ禍以降できなかった行事にまた日常が戻って来ることを嬉しく思います。気づけば今日が参加申し込みの締切日。

教会で人数をまとめ、明日までに費用も振り込まなければなりませんので参加希望の方は今日中にお持ちくださいませ。

滋賀といえば近江八幡、近江八幡といえば和菓子の「たねや」本店があります。

猛暑の中食べたイチゴかき氷の美味しさと反抗期の嗣音に腹を立て怒鳴りつけたかの地を思い出し懐かしさを感じる今日この頃。

お盆の時期で車で行くことには少々気後れしてしまいますが、神様が用意してくださった特別な機会をできるだけ多くの方々と共有できればと願っています。

そういえば前回の滋賀でのTPKF大会の時、咳が止まらず行きの車中でもずっと咳をしていた英児先生が、集会中の癒しの祈りの中で咳が完全に癒されたことを今思い出しました。

今度の大会でも主の素晴らしい御業が行われることを期待します!

 (小山晶子牧師婦人)

2列王記 5:15-27

「ナアマンはその一行の者すべてを連れて神の人のところに引き返して来て、彼の前に立って言った。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。」(5:15)

シリアのナアマン将軍は、預言者エリシャが出て来なかったことに腹を立てました。

彼は言います。

「なんということだ。預言者がじきじきに出て来てあいさつし、患部に手をあて、彼の神の名を呼んでツァラアトを治してくれると思ったのに。」(11節LB)

ところが、神の癒しを体験した今、彼自身がへりくだってエリシャの前に立ち、信仰告白をします。

「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。」

ナアマン将軍は、人ではなく、主なる神が生きておられ、癒されることを体験しました。

人ではなく、神が癒されます。

私たちは人ではなく、今も生きて働いておられる神に期待します。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2列王記 5:1-14

「彼女は女主人に言った。「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」」(5:3)

背景として、

「アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていた。」(5:2)

という話があります。

私たちが疑問に思うことは、どうして神はアラムの略奪を神は許されたのかということです。

彼女が捕えられ、ナアマンの妻に奴隷として仕えることを、どうして許されたのかということです。

彼女の発言は、彼女が信仰を持っていることを示唆します。

それなのにどうして、神は彼女がこのような扱いを受けることを許されたのか、私たちは理解できません。

私たちが知っていることは、神は彼女を用いて、ナアマンのツァラアトを癒し、神の力を表したということです。

私たちは理解することではなく、信頼することが求められています。

2列王記 4:38-44

「彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」」(4:43)

一人の信仰者が「初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに」持ってきました。

初物を神に捧げたこの一人の信仰者の行動が百人もの預言者たちを支えることとなります。

神は捧げられた限りある資源を増やして、満たすことができるお方です。

エリシャは主の「彼らは食べて残すだろう。」という御言葉に従順したことで、奇跡を見ました。

イエス様は5つのパンと2匹の魚で5千人を養いました。

しかも、

「彼らはみな、食べて満腹した。」(マルコ6:42)

と言います。

イエス様の弟子たちもイエス様の御言葉に従い、奇跡を見ました。

神の御言葉に聴き従うならば、神の奇跡を体験することになります。

2列王記 4: 18-37

「その子の母親は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」エリシャは立ち上がり、彼女の後について行った。」(4:30)

シュネムの女の息子が突然死んでしまった時、彼女は預言者エリシャのところに行きました。

エリシャは彼女に死んでしまった息子のことをあきらめるように諭したわけではありませんでした。

彼女の懇願を聞き入れて、直接、彼女の息子のところに行き、祈ります。

そして、神はエリシャの祈りに答えて、彼女の息子を死からよみがえらせます。

私たちは祈りの力を過小評価すべきではありません。

神は私たちの小さな祈りを用いて、大いなる御業をなされます。

ヤコブはこのように言っています。

「エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。」(ヤコブ5:17)

エリヤと同じように、エリシャも私たちと同じ人間です。

2列王記 4:8-17

「ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこに一人の裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それ以来、エリシャはそこを通りかかるたびに、そこに寄って食事をするようになった。女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。」(4:8,9)

イエス様は言われました。

「預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」」(マタイ10:41,42)

パウロは彼の働きを支援してくれたピリピの教会に語ります。

「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」

2列王記 4:1-7

「器がどれもいっぱいになったので、彼女は子どもの一人に言った。「もっと器を持って来なさい。」その子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。」(4:6)

ある伝道者がこんなメッセージをされていました。

空の器を探して歩き、愛の油を注ぎ続けなさい。

愛の油を注ぎ続ける限り油は無くならない。

イエス様もこうおっしゃられました。

「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」(ルカ6:38)

使徒パウロもエペソの教会の長老たちに言いました。

「主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」(使徒20:35)

2列王記 3:13-27

「彼は次のように言った。「主はこう言われます。『この涸れた谷にはたくさんの水がたまる。』」(3:16)

原文は「みぞ、みぞ」と反復して複数で表現されているので、これまでの新改訳では

「この谷にみぞを掘れ。」

と訳していました。

「新聖書注解」はこう解説します。

「水が十分にあたえられるから準備をせよとの意味である。」

皆様の人生の中でも、涸れた谷にいるような時があると思います。

しかし、神は神の時に、神でしかできない方法で、奇跡的に水を十分に与えてくださいます。

神はその準備をするように「みぞ」を掘り続けるようにおっしゃられます。

どんなに状況が期待できないような状態であったとしても、信じてみぞを掘り続ける・・・、信仰の備えをする。

たとえ今、涸れた谷にいたとしても、暗やみの中でも、神が命じられるように「みぞを掘り続ける」中で、朝が来て「そのみぞが水で満たされていた」という神の御業を体験する時がきます。