1ヨハネ 5:1-21

「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(5:11,12)

これほど明確な文章はないと思います。LBではこう訳しています。

「神の言われたこととは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったこと、そして、永遠のいのちが神の御子のうちにあるということです。そういうわけで、神の子を信じる人にはいのちがあり、信じない人にはいのちがないのです。」

ある人は「すべての道が神に通じる」と言います。ある人は「誠実であれば、神は受け入れてくださるはずだ」と言います。しかし、聖書は明確に、イエス・キリストを信じることなく永遠のいのちはないと言います。ですから私たちはイエス・キリストを明確に宣べ伝えていく必要があります。

1ヨハネ 4:7-21

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(4:7,8)

イエス様が私たちに与えた戒めは互いに愛し合うことです。私たちは自分の愛の欠如に心を痛めますが、その愛の源は神だと聖書は言います。ですから、私たちが互いに愛し合うことを選ぶとき、神ご自身が私たちを助けてくださいます。

「私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(12節新改訳二〇一七)

もし、神が私たちのうちにおられるなら、私たちは何も恐れる必要はありません。

「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」(4節)

「キリストと共に歩む時、私たちの愛は成長し、いっそう完全なものとなっていきます。」(17節LB)

1ヨハネ 3:11-4:6

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(3:16)

キリストはただ口先で私たちを「愛している」と言われたのではなく、実際に、私たちの罪のために十字架で死なれることを通して愛を明らかにされました。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8新改訳二〇一七)

愛は行動を伴います。聖書は私たちに同じように口先だけでなく、行動に現すように勧めています。神様に導かれるならば、犠牲を払うことから逃げることがないようにと、主のあわれみと助けを求めます。

たまにはこんな日も

2018年も残すところあと一か月。
何を書こうかとパソコンを前にして座ってみたものの何も浮かんできません。どうして何も浮かんでこないかと考えてみると、恐らく明日の食事作り(補講アルファのため)が気になって考えがまとまらないということに気がつきました。本当は豚汁とおにぎりにしようと思っていたのですが、イタリアンが食べたいという約一名の希望によりこれからミートソースづくりをしなければならないのです。そんなに難しい作業ではないのですがグルテンメニューなのでそうすると自分が食べるものを別で作らないといけないし、、、等々考え始めてちょっと気が重くなってしまっているのです。まあ、たまにはこんな日もあります。ゴロゴロしている猫たちを見ながら、こころは若干逃避気味。そんなこんなを徒然なるままに書いているとかなり書き進められてしまいました。兼好さんもこんな気持ちだったのかな。さて、そろそろ作業に取り掛かります。アドベント一週目は、イエス様のご降誕を覚えつつミートソースパスタにします。 (小山晶子牧師婦人)

1ヨハネ 2:28-3:10

「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」(3:8)

イエス・キリストを信じる者は、「今すでに」神の子どもです。しかし、後の状態は「まだ」明らかにされていません。聖書の中に出てくる「神の国」、「終わり」(終末論)を理解するためには、この「今すでに」と「まだ」という理解が重要です。「神の国」(統治)はイエス様が来られたことで「今すでに」私たちのただ中に始まっています。しかし、完全な「神の国」はイエス・キリストが再び来られる時にもたらされます。イエス様の十字架の死と復活、聖霊の到来によって終わりは「今すでに」始まっています。私たちは「終わり」のはじまりと「終わり」の完成の間に生きています。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1ヨハネ 2:1-27

「若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」(2:14)

キリストを信じる者は、戦いの中にいます。戦いは、私たちの思考に関する戦いであり、私たちの人生を決定づける戦いです。神は、私たちが神との関係を築き、祝福された人生を歩むことができるように、私たちの人生を治めたいと願われています。しかし、サタンは、私たちを滅ぼすことができるように嘘を用いて私たちの人生を支配しようとします。この戦いに勝つ方法は、神のみことばのうちにとどまることだと聖書は言います。ダビデもこう言っています。

「私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。」(詩篇119:11新改訳二〇一七)

神のみことばを心に蓄えることがサタンの嘘にだまされないためにも必要です。

1ヨハネ 1:1-2:11

「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(1:3)

「交わり」

と訳された言葉は、

「共通のものを共有する」

という意味があります。使徒ヨハネが、この文脈で主張している共通のものとは、

「御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」

それはつまり、

「生ける神、イエス・キリストを現実として体験」すること、

「生ける神の臨在を共有する」

ということです。私たちは使徒ヨハネが体験したように、キリストをこの目で直接見たり、聞いたり、触ったりすることはできません。しかし、私たちもヨハネとおなじように、「生ける神の臨在を共有」できると言います。ペンテコステの日に聖霊が臨み、「生ける神の臨在」は、今、キリストを信じる人々の中に回復されます。教会は「生ける神の臨在の民」です。

2ペテロ 3:1-18

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。」(3:9,10)

「主の日は盗人のように」とは、その日は、思いがけない時にやってくるということです。つまり、私たちはサッカーで言うロスタイムに生きています。いつ、終了の笛が吹かれてもおかしくない時代に生きているのです。神だけがいつ終了の笛を吹くか、決めることができます。イエス様が誕生されてから、二〇〇〇年を経た今も、まだ、笛が吹かれていない理由は、神のあわれみです。ひとりでも滅びることを望まない神は、すべての人が悔い改めることができるように、忍耐されているのです。しかし、その日は必ず来ます。

2ペテロ 2:1-22

「また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」(2:7,8)

私たちは、この世に生きていますが、この世に染まる必要はありません。道徳的な堕落が叫ばれるこの世の中で敬虔に生きることを選ぶことは、時には悩まされ、心を痛めるものです。しかし聖書はこの世界に終わりがあることを明確に伝えています。そして、この世界が終わる前に、大患難時代と呼ばれる時が来ることを伝えています。キリストを信じる者は、ロトが救い出されたように、その大患難時代から救い出されます。その日は遠くありません。世界情勢を考えると、確実に、その日に向かっていることを私たちは感じます。だからこそ、堅く節操を保ちキリストを待ち続ける姿勢が大切です。

2ペテロ 1:1-21

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(1:20-21)

聖書は、自分勝手に解釈することを禁じています。自分の好きなように解釈することは認められていません。なぜなら、聖書は神のことばであり、

「聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったもの」(21節新改訳二〇一七)

だからです。文脈を無視して、自分の思いを読み込み、聖書を利用しようとする偽教師に気をつける必要があります。ペテロは偽教師というのは、

「滅びをもたらす異端をひそかに持ち込んで、自分たちを買い取ってくださった主まで否定しようとします。」(2:1新改訳二〇一七)

と言います。