イザヤ書60:1-62:12

「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」(60:19,20)

終わりの日、やがてもたらされる新しい天と新しい地の預言がここにあります。ヨハネの黙示録にも、こういう箇所があります。

「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」(21:23)

神の栄光に輝く都、それが、永遠の天の都です。それは、キリストの永遠の支配を意味し、私たちの嘆きや悲しみが終わる日を意味しています。ですから、キリストの支配を歓迎できない人にとっては、天国は苦痛だと思います。だから、キリストの支配を歓迎する人だけが天国に行けるのだと思います。

イザヤ書 57:14-59:21

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(57:15)

協会共同訳ではこう訳しています。「打ち砕かれた人、低められた人と共にいて、低められた人の霊を生き返らせ、打ち砕かれた人の心を生き返らせる。」自分でへりくだることもありますが、へりくだらされることがあります。自己卑下したり、自分をかわいそうに思うことはへりくだることではありません。自分は神が必要な存在であると認め、神と共に生きることがへりくだることです。自ら、神を神、人は人と認められれば良いのですが、時として、低くされることを通して、打ち砕かれることを通して体験する時があります。しかし、神は低められた人の霊を生き返らせ、打ち砕かれた人の心を生き返らせるお方です。

イザヤ書 55:1-57:13

「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」(55:1)

聖書の神は「出て来い」と私たちを招かれる神です。イエス・キリストも言いました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

どんな問題であったとしても、キリストのもとに来るなら、キリストが解放を与え、安らぎを与えてくださいます。さらにこうおっしゃられました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

キリストのもとに行くならば、解放だけでなく、生ける水の川、聖霊に満たされ、私たちの内から溢れるようになり、自分の周りの人までも祝福するようになります。

ああ葡萄

今年は例年に比べてかなり葡萄の房が多く、夏の初めには小山牧師がそのひと房ひと房に袋をかけて収穫を心待ちにしていました。ところが先日の台風の折にその多くが地面に落ちてしまいました。せっかく残った房もそのすべてに爪で後をつけたような傷が入っており、よく見ると蟻がせわしげに葡萄の実に出入りしながらせっせと働いています。なんということでしょう。ヨハネ福音書にはイエス様が御自身と私たちを葡萄の木と枝にたとえて語っておられますが、枝についていたってまともな実ができないことがあるんですね。確かに、15章5節には 「人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」この箇所の意味がずーんと心に響いてきました。まだ黙想の最中なのですがすっかりダメになってしまった多くの葡萄の実を見ながら、こうはなりたくないなあと思うのです。良い実を実らせるためには、良い水と正しい栄養が必要なことを思うと、自分の信仰生活を反省せずにはいられませんでした。     (小山晶子牧師人)

イザヤ書 51:17-54:17

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は。」(52:7)

聖書が言う「良い知らせ」(福音)とは、『あなたの神が王となる。』と告げ知らせることです。四つの福音書すべてに、イエス・キリストが十字架に架かられた時、その罪状書きに

「ユダヤ人の王」

と書いてあったことが記録されています。神はキリストが十字架に架かられることによって王となられました。復活を通して死のとげは切り取られました。よみがえられたイエス様は言われました。

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28:18)

福音とは、十字架の御業を宣べ伝えることです。
今日は、主の日。共に主に礼拝を捧げ、福音を宣べ伝えましょう。

イザヤ書 49:8-51:16

「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」(50:4)

LBではこう訳しています。

「神である主は私に、知恵のことばを授けました。疲れきった人に何を言ったらいいかを教えるためです。朝ごとに、主は私を目覚めさせ、御心への理解を深めさせてくれます。」

神は、朝ごとに、聖書のみことばを与えてくれます。私たちは聖書を開くたびに、御心への理解が深められていきます。興味深いことは、神が私たちに御言葉を授けてくれるのは「疲れきった人に何を言ったらいいかを教えるため」だと言います。私たちは自分の教養のためというよりも、人々を励ますために日々神のみことばを受け取る必要があります。

※ 明日は香港からゲストが来ます。第三礼拝は英語礼拝です。

イザヤ書 47:1-49:7

「あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者を並べたてて、あなたを救わせてみよ。」(47:13)

この箇所はバビロン帝国に対する裁きの預言です。バビロン帝国は占星術が発展していた国でした。バビロンの人々は占星術者、呪術者たちに伺いを立てるのですが、それぞれが違う助言をして、混乱していました。そして、結局のところ、

「自分さえ救えないのだから、とても頼りにはならない。」(14節LB)

ということが起きていたのです。占いは聖書が禁じていることであり、私たちは気をつける必要があります。しかし、占いではなくても、助言する者が多すぎると、私たちは混乱してしまいます。他者に助言を求めることは決して悪いことではありませんが、まず、まことの神に祈り求め、みことばに耳を傾ける必要があります。

イザヤ書 44:24-46:13

「わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。」(45:2)

イエス・キリストは弟子たちに

「さあ、ついて来なさい」(マルコ1:11LB)

と言われました。ついていくためには、キリストの後ろを歩く必要があります。信仰生活は、キリストの後ろを歩くようなものです。キリストが前に進んでいるならば、険しい地は平らに、青銅のとびらは打ち砕かれます。さらにこの次の3節にはこんな約束があります。

「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。」

キリストの後ろを歩いていくならば、隠された財宝、だれも知らない富が与えられるという世界もあると言います。私たちはキリストの後ろを歩いているでしょうか?それとも、キリストを見失っているでしょうか?

イザヤ書 43:1-44:23

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(43:4)

私たちを造られた神は、誰がなんと言おうとも、私たち一人一人は高価で尊い存在だと言います。残念ながらこの世界は、私たちの存在を肯定するよりも、否定することの方が多いと思います。悪魔というのは、私たちの存在、人格を否定することによって攻撃します。しかし、たとえ「誰も望んでいない」と言われたとしても、「神が望まれたから」私たちは今、存在しています。神にとって、私たち一人一人はかけがえのない存在なのです。神は私たち一人一人に将来と希望を与える目的をもっておられます。悪魔はその目的に私たちが生きないように、私たちの存在を否定しようとします。ですから、揺らぐことのない神の御言葉をしっかりと握りしめる必要があります。生産性、効率性、有用性といった価値観にしばられず、神が言うから人は生きているだけで尊いと受け入れるべきです。