ルカ 4章

「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が周辺一帯に広まった。」(4:14)

悪魔は石をパンにするように、悪魔にひれ伏してこの世界の権力と栄光を受けるように、神殿の屋根から飛び降りて、御使いに助けさせるように誘惑しました。

これらの誘惑はまさにイエス様の力を行使させようとするものでした。

イエス様はこの誘惑にはっきりと「ノー」と言われました。

その理由をユージン・ピーターソンはこのように言います。

なぜなら、いずれの場合も、力は人間関係から抽象化され、外から押し付けられ、愛に関与することなく、非人間的に使用されようとしたからです。

イエス様が「ノー」と言った後、イエス様は御霊の力を帯びたと言います。

そして、イエス様はその力を飢えた人々を助けるために使われます。

虐げられている人のために正義を行うために使われます。

他者を助ける奇跡によって福音を宣べ伝えるために使われます。

ルカ 3章

「ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」(3:3)

人が必要としているのは「罪の赦し」です。

「悔い改め」は精神的にも振る舞いにおいても方向転換をすることを意味します。

ですから、どのような生き方をしているかが「悔い改め」の証拠となります。

「悔い改め」は私たちの内側で始まり、バプテスマはそれを外側で表現します。

信仰生活は誰も見ていないところだけでなく、共同体の中で培われていくものでもあるからです。

イエス・キリストの十字架はすべての人に「罪の赦し」を与えるためでした。

人は自分の罪を「悔い改め」て、方向転換して、イエス・キリストを信じ、バプテスマを受けることを通して「罪の赦し」を受けることができます。

人は神との関係を取り扱うことなしに、正しくあることはないからです。

ルカ 2章

「それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。」(2:51)

イエス様は王の王、主の主、神の御子であられるのにも関わらず、人間の両親に仕えられたと聖書は言います。

イエス様は時が来て、公生涯をはじめるまで肉の両親に仕え、私たちに模範を示されました。

聖書は言います。

子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。

これは正しいことなのです。

「あなたの父と母を敬え。」

これは約束を伴う第一の戒めです。

「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。」(6:1-3)

父と母が敬うのに値するから敬うようにではなく、父と母であるがゆえに敬うようにと言います。

そして、両親を敬うことは神の約束が伴うと言います。

幸いな人生を生きる約束です。

イエス様がその模範を示されたということを、私たちは忘れてはいけないと思います。

ルカ 1章

「神にとって不可能なことは何もありません。」(1:37)

神に不可能なことはありません。

ですから、神が語られたことは必ず実現すると信じきって生きるという姿勢はマリアだけでなく、私たち一人一人にも大切です。

神のみことばである聖書には、たくさんの約束が記されています。

それらの一つ一つを必ず実現するとしっかりと握り締めることは大切なことです。

もちろん、その実現を見るのには時間がかかります。

マリアもイエス様を胎に宿して出産するのには時間がかかりました。

九ヶ月以上はかかったはずです。

しかし、神の時は必ず訪れます。

私たちが想像しているほどその日は遠くはありません。

来月はクリスマス。

まさに、神が語られたことが実現した日です。

不可能が可能となった日です。

イエス様のご降誕を感謝すると同時に、聖書のみことばが真実であることを覚えたいと思います。

マルコ 16章

「弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」(16:20)

よみがえられたイエス様は弟子たちに命じられました。

全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」(16:15)

命じられただけでなく、信じる者たちにしるしが伴う権威を授けられました。

信じる人々には次のようなしるしが伴います。」(17節)

それだけでなく、「主は彼らとともに働き」とあるように、イエス様は今生きておられ、一緒に働いてくださるお方です。

福音を伝えようとする時に、実は、イエス様が一緒に働いてくださると言うのです。

ですからイエス様の現実を感じる一番いい方法は、福音を伝えることです。

福音を伝えていく中で、共に働いてくださるイエス様の現実を体験します。
今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。本日は宗教改革記念日です。

マルコ 15章

「しかし、イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた。」(15:5)

ローマ総督ピラトは政治家で、真理も正義にも興味はなく、群衆を満足することだけを考えていました。

自分に被害をもたらさない限り、どちらに風が吹いているかを気にするタイプの権力者でした。

だから、彼は何も悪いことをしていないことを知っていても、「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」(12節)と群衆に尋ねます。

群衆がいつも正しいとは限りません。

群衆が求めたのは「十字架につけろ」(14節)でした。

「それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。」

ここにポピュリズムの脅威があります。

イエス様は、沈黙をもってこの苦難を耐え忍ばれました。

静まれ、私こそが神であると知れ。」(詩篇46:11協会共同訳)

人は神を知る必要があります。

マルコ 14章

「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」(14:38)

ペテロはイエス様に言いました。

たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」(29節)

しかし、その後、イエス様と共に目を覚まして祈っていることさえできず、イエス様が捕らえられると、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。

さらに、

噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った」(71節)

とあります。

そんなペテロが最初の教会のリーダーでした。

イエス様はそんなペテロを裁くどころか、あわれまれて言いました。

霊は燃えていても肉は弱いのです。

初代教会のリーダーは、そのことを理解していた人だったということを、私たちは心に留める必要があると思います。

霊は燃えていても、みんな、肉体は弱いのです。

だから教会は、お互いの弱さを認め、祈り合い、励まし合う場所です。

マルコ 13章

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(13:31)

この世にあるものは移ろいやすく、そびえたったビルでさえ、いともたやすく壊されて、また、新しい建物が建築されています。

永遠に続くかと思われる制度も、ふとしたことで崩壊します。

哲学も思想も、時代と共に変化し続け、その証拠として世代間に溝ができています。

考え方が変化しているのです。

しかし、聖書は時代を超え、文化を超え、今も、神のことばとして、多くの人々の心を捉え、変え続けています。

どんなに聖書を批判する人がでてきても、その批判者やその批判の内容は廃れて生きますが、聖書は変わらずに多くの人々の心を捉えて離しません。

私たちを愛する神は今も生きておられ、私たちに今も語り続けておられます。

「こはげに古き教えなれど、日々新しき歌とぞなる」(聖歌525)と言う賛美の通りです。

マルコ 12章

「皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(12:44)

イエス様はこの乏しい人が「生きる手立てのすべてを投げ入れた」のを見ていたと言います。

イエス様は乏しい人が捧げることを引き止めることをしませんでした。

それは、捧げることを通して、天の窓が開かれ、祝福されることを知っていたからです。

乏しい中でも捧げたピリピの教会の人々に使徒パウロはこのように言います。

贈り物を感謝するのはもちろんのこと、何よりもうれしいのは、その親切な行いのゆえにあなたがたが受ける、豊かな報いのことです。」(ピリピ4:17LB)

精一杯捧げる人々に対して、聖書は約束を与えています。

また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(4:19)

マルコ 11章

「そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。」(11:9)

イエス様がエルサレム入城をされる時、群衆は「ホサナ」と叫びました。

「ナ」は英語の「プリーズ」に相当する語で、「ホサ」は「お救いください」と言う意味があります。

ですから、「ホサナ」は「お救いください。お願いします」と言う意味です。

もちろん、「お救いください。お願いします」と言う対象は「救い主」以外にあり得ません。

それで、「ホサナ」は賛美の叫びの定型句となりました。

「祝福あれ」も賛美の叫びの定型句です。子ろばに乗られた理由は、旧約聖書の預言の成就だからです。

娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9)

イエス様は預言された王として入城されたのです。