ルカ 1:46-55

「私のたましいは主をあがめ」(1:46)

46節から55節までは、マリアの「マグニフィカット」と呼ばれる歌です。

「マグニフィカット」とは「あがめ」という単語のラテン語訳です。

マリアはまず、彼女の「たましい」は主をあがめると歌いはじめました。

ヘブル語で「たましい」はその人の存在すべてを意味する単語です。

つまり、彼女の存在すべてが主をあがめると歌ったのです。

マーヴァ・ドーウンという学者はこう言っています。

彼女は目立たない存在でしたが、神は彼女を慈愛に満ちた眼差しで見守っていました。 彼女は、すべての世代が彼女を称賛することになっても、その栄光は神のものであり、神は驚くほど大きいお方であり、神こそあがめられるべきお方であることを、すべての人に知ってもらいたかったのです。

ルカ1:39-45

「私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。」(ルカ1:43)

御使いガブリエルがマリアのところに現れてイエス様を宿すことが伝えられました。

不安の中にあったマリアにガブリエルは親類のエリサベツのところに行くように伝えます。

マリアは急いで、エリサベツを訪ねます。

エリサベツの言葉はガブリエルのメッセージを確信させるものとなりました。

エリサベツはまだそんな片鱗もないのに、マリアが子どもを宿していることを知っていました。

マリアの声を聞いて、胎内で子どもが躍り、聖霊に満たされたからです。

そして、マリアに言います。

主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」(45節)

天使が訪ねて来るという体験を誰もがするわけではありませんが、私たちは誰でも神の約束を聖書の御言葉を通して読むことができます。

ヨハネ 15章

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」(15:16)

私たちは自分が選んだ、自分にイニシアチブ(主導権)があると思ってしまいやすいですが、実は、神様が選んでくださった、神様の側にイニシアチブがあると言います。

一人でも多くの人々がイエス様を信じることができるために私たちを選ばれたと言います。

そのためにイエス様の御名によって祈るように私たちを選ばれたと言います。

私たちのこの地上での使命、選ばれ任命されたことを忘れることなく生きることができますように。

ヨハネ 14章

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(14:6)

イエス様は明確に言われました。

イエス様を通してでなければ、誰も父なる神のみもとに、すなわち天の御国に行くことはできないと。

人は、イエス・キリストを信じる必要があります。

だから、使徒ペテロもはっきりと伝えました。

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

このクリスマス、改めて天使の伝えたメッセージに耳を傾け、このメッセージを一人でも多くの人に伝えていきたいと思います。

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:21)

ヨハネ 13章

「イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」」(13:7)

イエス様が突然、弟子たちの足を洗いはじめたので、ペテロは面喰らったのだと思います。

当時、足を洗うのは奴隷の仕事とされていました。

サンダルで歩いていたのですから、足もかなり汚れていたことが容易に想像できます。

イエス様が何をされているのか理解することができませんでした。

私たちの人生に起こる様々な出来事も、理解できないことばかりです。

イエス様は力ある神のはずなのに、どうしてこんなことが起こるのだろうか。

イエス様は自分のことを愛されているのならどうしてこんなことが起こることを許されるのか。

イエス様の答えは今も同じです。

わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。

イエス様が求められていることは理解することではなく、信頼することです。

ヨハネ 12章

「そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」」(12:35,36)

「闇」は神のいない世界を象徴しています。

神を無視して生きる人生はまさに「闇の中を歩く」人生です。

イエス様は「光の子どもとなれるように」と語りました。

「光の子ども」となれる方法は、ただイエス・キリストを信じることだと言いました。

イエス様はご自身を光として語られました。

わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(8:12)

イエス・キリストを信じる者の内にはイエス様と同じ三位一体なる神である聖霊が住んでくださいます。

聖霊は聖書の御言葉をもって私たちの道を照らしてくださいます。

ヨハネ 11章

「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(11:5)

イエス様はマルタとその姉妹マリアとラザロを愛しておられたと聖書は言います。

ここで使われている愛は「アガペ」で、神の愛を表す時に用いられる単語です。

「無条件の愛」と訳されることもあります。

イエス様はマルタとマリアとラザロが何かできるから愛していたのではなく、その存在を愛しておられたということです。

2節で

このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで

と説明していますが、そのような行動をとったからイエス様が愛されたのではないことを示唆するためか、ここでマリアの名前は伏せられ、「その姉妹」とだけ記録されます。

マリアの行動はあくまでもイエス様の愛に対しての応答だったということです。

神様は私たちを愛しておられます。

それがクリスマスが私たちに伝えているメッセージです。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

ヨハネ 10章

「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」(10:10)

盗人とはサタン(悪魔)のことです。

サタンが来る目的は、盗み、殺し、滅ぼすためです。喜びを盗み、関係を壊し、人生を破壊するためです。

この世の悪の背後にはサタンの存在があります。

しかし、イエス様が来られた目的は、私たちがいのちを得るためです。

一人でも多くの人に充実した意義深い人生を与えるためです。

パッション訳ではこう訳しています。

しかし、私が来たのは、あなた方にすべてのものを豊かに与え、あなた方が期待する以上のものを与え、あなた方があふれるまで、人生を満ち足りたものにするためです。

クリスマスはイエス様がこの世界に来られたことをお祝いする時です。

このアドベントのシーズン、一人でも多くの人にイエス様が来られた目的を伝えることができますように。

ヨハネ 9章

「こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。」(9:15)

イエス様は往々に信仰の行動を求められます。

この目の見えない人の場合、イエス様は泥を彼の目に塗って、シロアムの池で洗うように言われました。

彼は、シロアムの池に行って、自分で洗うという信仰の行動を行う必要がありました。

神はなんでもできますが、あえて信仰の行動を求められます。

パリサイ人たちの尋問に対する彼の応答を読む時に、彼の信仰の行動が彼の言葉に力を与えていることを見ることができます。

彼はどんなに脅されても、揺るがない信仰をもって答えます。

あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(9:25)

ヨハネ 8章

「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(8:31,32)

日本の国立国会図書館に、「真理がわれらを自由にする」と刻まれています。

イエス様は「真理」とは何か、はっきりと言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)

イエス様が「真理」です。

ですから、「真理がわれらを自由にする」と言う「真理」は、イエス様のことを指しています。

「イエス・キリストがわれらを自由にする」という意味です。

すべての人は、まことの真理、イエス・キリストが必要です。

イエス様はこのことを、ご自分を信じた人たちに言われました。

そして、イエス様の言葉に留まるように言われました。

日々、聖書の御言葉を読み、黙想し、御言葉に留まることを通して自由を体験することができますように。