マタイ 22章

「王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。」(22:3)

毎週の主日礼拝は、王の王の祝宴と言ってもいいと思います。

ダビデは歌いました。

「私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。」(詩篇23:5)

主は毎週、私たちが必要としている食卓を整えて、招いてくださっています。

「ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、」(5節)

とありますが、残念ながら、人々は神の招きを無視して、自分の用事を優先させたと言います。

その結果、神の祝宴にあずかれなかっただけでなく、滅んでしまったと言います。

主は

「大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。」(9節)

と言われます。

全ての人が祝宴にあずかることができるように、礼服はカルバリの十字架で準備されています。

主の家がいっぱいになるように招きましょう。

マタイ 21章

「あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」(21:22)

キリスト教の祈りと他の宗教の祈りと決定的に違うところは、誰に祈っているかという点です。

キリスト教は天地万物を造られた創造主なる神に、イエス・キリストの御名によって、聖霊の助けによって祈ります。

ですから、「信じて祈り求めるものは」という意味は、私たちの信仰心があればということとは少し違います。

私たちが三位一体なる神を信頼しているならばということです。

誰を信頼しているかが重要です。

どんなに信仰心があっても、祈りを聞くことができない物に祈っても意味がありません。

たとえば、人間に祈っても、「祈り求めるものは何でも受けることになります」とは言えません。

限界があるからです。

しかし、不可能なことはない力ある神に祈るなら、「祈り求めるものは何でも受けることになります。」と言えます。

マタイ 20章

「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(20:28)

初代教会の讃美歌と言われる「キリスト賛歌」は、今日のイエス様の言葉を言い表しています。

「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。

人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」(ピリピ2:5-9)

キリストに倣って、仕える人生を生きるように聖書は私たちにチャレンジしています。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

マタイ 19章

「イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」」(19:21)

多くの財産を持っていた青年の

「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(16節)

という質問に対して、イエス様は十戒と隣人愛を引用します。

青年が

「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」(20節)

という質問に対して、イエス様は青年の欠けていた部分を指摘します。

青年は自分の欠けを認めて、イエス様に従うこともできたはずです。

しかし、彼は

「悲しみながら立ち去った。」(22節)

と言います。

この青年とは対照的に取税人ザーカイは自分の財産を施しイエスに従ったことが記録されています。(ルカ19章)

「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」(26節)

マタイ 18章

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(18:20)

新型コロナの影響もあって、集まることに注意が必要なことは確かです。

しかし、イエス様の名に置いて集まっているところに、イエス様もその中にいるという約束を私たちは忘れてはいけないと思います。

イエス様の臨在ほど大切なものはありません。

もちろん、イエス様はいつも共におられます。

しかしイエス様は、イエス様の名において集まるところには、その中にいると約束されました。

ですから、キリスト教会は、共に集まることを大切にします。

聖書は言います。

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」(ヘブル10:25)

マタイ 17章

「しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」(17:27)

イエス様が神殿税を納めたという内容です。

イエス様は神の御子であるがゆえに、神殿税を支払う義務はないということを確認した上で、ユダヤ人たちをつまずかせないために納めたことが記録されています。

本質以外は寛容であれという原則をここに見ることができます。

本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもって。

ということです。

マタイ 16章

「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。」(16:21)

使徒ペテロが

あなたは生ける神の子キリストです。」(16節)

と信仰告白し、イエス様がこの信仰告白の上に

わたしはわたしの教会を建てます」(18節)

と宣言された時、イエス様はご自身の十字架の受難を予告しました。

これは熱烈な政治的メシア待望の中にいたユダヤ人たちには理解できない内容でした。

信仰告白をしたペテロもこのことを理解せず、イエス様をいさめたために、「サタン」と叱責されます。

十字架なくして冠なし、(No cross, No crown)

イエス様の十字架の御業無くして、救いの恵みはありません。

だから教会はキリストの十字架を高く掲げます。

マタイ 15章

「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」(15:14)

イエス様のパリサイ人たちに対する態度ははっきりしていました。

冷たく感じますが、「放っておきなさい」とイエス様は言われました。

聖書は言います。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。」(ヤコブ3:1)

教える立場にある人はより厳しいさばきを受けます。

盲人が盲人を案内することにならないように、私たちは謙遜に聖霊なる神様を教師として歓迎する必要があります。

マタイ 14章

「イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。」(14:27)

弟子たちはイエス様に促されて舟に乗り込み、先に向こう岸に向かっていました。

しかし、強い向かい風と大波に悩まされました。

主のみこころに従っているからといって向かい風を体験しないとは限りません。

大波に悩まされているのは、神のみこころに逆らっているからとは限りません。

大事なのは、そんな弟子たちのところにイエス様が来られたことです。

しかし弟子たちはイエス様を幽霊だと言って取り乱したとあります。

そんな弟子たちにイエス様は言われました。

しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」。

今は恐れの時ではありません。信仰の時です。

信仰と恐れは、互いに相容れません。

信仰は恐れを消し、恐れは信仰を消します。

目の当たりにする嵐のような状況に取り乱すのではなく、「わたしだ。」と言われるイエス様を信仰によって認識できますように。

クワ子

我が家にクワガタのメスがやってきてちょうど一週間。

瀕死の状態(ゴキブリと間違えて水攻めにしてしまったため)から少しづつ元気になり、一昨日はとうとう脱走して半日家の中で行方不明になりました。

お世辞にもかわいいとは言えない姿ではありますが、近くで見るとその精巧な作りに神様の偉大さを感じ、感動します。

マクロの視点でも、ミクロの視点でも奇跡の創造の業。

いつも思うのですが、これがどうして自然に、あるいは偶然できたなどと信じられるんでしょう。

ところで、中国のロケットの残骸が地球に落下することがニュースになっています。

20トンもあるため大気圏では燃え尽きない可能性が大きいとか。

日本を含めた広範囲に落下の可能性があるとのことです。

「これはもう神に祈るしかない」とあるコメンデ―ターが発言していましたが、科学の発展による結末がこの世では非科学的と言われる『神に祈ること』だという結論に思わず笑ってしまいました。

神様の存在、聖書の御言葉を現実として歩むときにその素晴らしさに圧倒されます。

私たちが神の国の現実に生きる姿を通して、その中に加わる人が起こされていくことを心から祈ります。

今週も全能の主が私たちと共にいてくださることを信じ、主にあって力強く歩むことができますように。

暑い日が続いていますので体調も守られますよう互いに祈り合っていきたいと思います。

(小山晶子牧師夫人)