ヘブル 7:10-22

「この方について、こう証しされています。「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である。」」(7:17)

どうして、メルキゼデクの話題が重要かと言いますと、こういうことです。

アブラハムの孫、ヤコブには十二人の子どもがいて、それでイスラエルは十二部族となります。

その後、モーセを指導者として、エジプトを脱出したイスラエルの十二部族は、シナイ山で神と契約を結びます。

その時、十二部族の一つ、レビ族が、祭司の部族として選び分けられます。

この後、レビ族が祭司家系となります。

やがて、ダビデが王となった時、神がダビデと契約を結び、ダビデの子孫からメシアが登場することを約束します。

ダビデは、レビ族ではなく、ユダ族でした。

つまり、メシアはレビ族ではなくユダ族でなければなりませんでした。

イエス様はユダ族です。

ですから、イエス様が大祭司という発想は、イスラエルの十二部族からの発想では不可能だったのです。

ヘブル 7:1-10

「このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。」(7:1)

創世記14章で、アブラハムが「いと高き神の祭司」、メルキゼデクにすべての物の十分の一を捧げたことが記録されています。

つまり、レビ族が誕生する前に、「いと高き神の祭司」という祭司職が存在していたということです。

この説明が、7章全体でなされていますが、簡単にまとめますとこういうことです。

イエス・キリストは、約束されてきたメシア、王であり、「いと高き神」の祭司であると言うことです。

「いと高き神」をヘブル語で「エル・エルヨーン」と言います。

エル・エルヨーンとは、宇宙全体の主権者、最高の支配者としての神を示す御名です。(中略)神は支配し君臨されるので、誰も、どんな御使いも、どんな悪霊も悪魔も、またどんな人生の境遇も、神のご計画を妨げることはできないのです。」(ケイ・アーサー)

ビブリオン再開

経験したことのないような猛暑続きだったこの夏。

9月に入りようやく暑さが少し落ち着いたタイミングで、先週木曜日からビブリオンを再開しました。

前回の続きからなのでマルコの福音書13章を読み、学んだのですが「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」「方々に地震や飢饉が、、、」「この天地は滅びます、、」「戦争や戦争の噂を聞いてもあわててはいけません」等々。

終わりの日に際してのイエス様の言葉は、暑さで眠りかけた頭にハンマーのように衝撃を与えるものでした。

この世の終わりが来るのが早いのかわたしたちの地上での人生の終わりが先なのかはわかりませんが、与えられた役割を果たすことができますようにと祈っています。

きょうは岩渕まことさんと由美子さんをお招きにしての伝道コンサート。

音楽ゲストをお招きするのは本当に久しぶり。

期待と緊張でわたしは少し落ち着きをなくしています(笑)。

この日を備えてくださった神様に感謝。

埼玉から第二礼拝に間に合うよう来てくださる岩渕まことさん由美子さんに感謝。

主の臨在に入るためのパスワードは「ありがとう」! 

(小山晶子牧師人)

ヘブル 6:13-20

「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。」(6:19)

聖書は私たちの人生に嵐が起こらないとは約束していません。

「錨」が備えられているという話自体が、人生に嵐はあるものだと示唆しているようなものです。

聖書が約束していることは、どんな嵐があったとしても、「信頼できる不動の錨」があり、私たちは揺るがされることはないということです。

私たちが錨を降ろしている天の幕屋には、私たちの大祭司、イエス・キリストがおられます。

イエス・キリストの十字架の御業によって、イエス・キリストを信じる者は、神の臨在の中に錨をおろしているから、何があっても、動かされることはないということです。

主は言われます。

「わたしが持っているすべてのものであなたを祝福することを約束する。祝福し、祝福し、祝福する。」(14節MSG)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヘブル 6:1-12

「神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。」(6:10)

「あなたがたの働き」は、使徒パウロがテサロニケの教会の人たちに対して伝えた内容と同じです。

「私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。」(1テサロニケ1:3)

生きている信仰は、働く信仰となります。

驚くことは、神は私たちの働きや愛を忘れたりなさらないということです。

だから使徒パウロは言います。

「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(1コリ15:58)

ヘブル 5:1-14

「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(5:7)

イエス様がこの地上でどのように祈られたかが記されています。

大きな叫び声と涙をもって

とあるように、イエス様は、とても感情的な祈りをされたことが分かります。

これは、ゲッセマネの祈りのときだけではなかったと思います。

「敬虔」と訳された単語は、神への畏れという意味があります。

同じ単語の動詞形が11:7で使用されていて、

恐れかしこんで

と訳しています。

イエス様が恐れかしこんで祈ったがゆえに聞き入れられたという意味は、私たちに祈りの模範を示されたということです。

私たちの祈りは神に指図するような横柄な祈りであってはいけません。

神を畏れ、神のみこころに従う、祈りであることが大切です。

ヘブル 4:12-16

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」(4:12)

神のことばである聖書のみことばは生きています。

なぜなら、聖書のまことの著者である神は今も生きて働かれているからです。

聖書のみことばは力があります。

なぜなら、聖書のまことの著者である神は、力ある神であり、今も生きて働かれているからです。

ですから、聖書のみことばが語られる時、人生が変えられ、世界は変革します。

「生きていて、力があり」という意味はまた、活動的という意味があります。

祈りをもって聖書を読み、自分の思いの中にしみ込ませ、イエス様との時間を過ごすことを通して、私たちはイエス様が触れてくださることを体験します。

それは両刃の剣のように鋭く、私たちの心を刺し貫くようなものかもしれません。

しかしそれは私たちをきよめ、いやすためです。

ヘブル 4:1-11

「こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。」(4:1)

聖書は「神の安息」を約束しています。

それは神の平安に入っていく安息であり、約束の地に入っていく安息です。

また、神が創造の御業を完成した時の安息です。

ただ、「この安息に入るように努めようではありませんか。」(11節)とあるように、万が一にも入れないようなことがないように、「恐れる心」を持たなければならないと言います。

神を恐れることが知識のはじめです。

FFブルースという聖書学者は、このように言っています。

「神を甘く考えてはいけません。神のことばは、とがめなく、無視することはできません。信仰によって受け止め、日々の生活の中で従わなければなりません。」

ヘブル 3:12-19

「兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」(3:12)

不信仰は生ける神との関係を断ち切ってしまう刃物のようなものです。

枝が木から切り離されてしまったら枯れてしまうように、生ける神から離れるならば、人は霊的に死んでしまいます。

そのことを防ぐために、聖書は3つのことを進めています。

一つ目は、気をつけることです。

LBは、「自分の心を見張りなさい。」と訳しています。

二つ目は、互いに励ましあうことです。(13節)

たとえ自分がその必要性を感じなくても、誰かのために、共に集まり、祈りあうことは大事なことです。

三つ目は、堅忍です。

聖書に対する確信を失った瞬間に信仰は堕落していきます。

もし私たちが、初めてキリストを信じた時と同じ気持ちで神に信頼し、最後まで忠実であれば、キリストにある祝福を受けることができるのです。」(14節LB)

ヘブル 3:1-11

「ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。」(3:1)

キリスト者であるならば、「イエスのことを考えなさい」と言います。

イエス様をまず、「使徒」として考えなさいと言います。

「使徒」は神から遣わされた人という意味があります。

それはイザヤが預言した「メシア」として考えなさいということです。

神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。」(イザヤ61:1)

さらに、イエス様を「大祭司」として考えなさいと言います。

「大祭司」は神と人との間をとりなす存在です。

イエス・キリストは、人が神に近づくことができるように、すべての人の罪のために十字架にかかり死なれました。

イエス様は完全な神であり、完全な人となられましたから、「使徒」であり「大祭司」です。