2サムエル 7:1-17

「行って、わたしのしもべダビデに言え。『主はこう言われる。あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか。」(7:5)

ユージーン・ピーターソンは、

ダビデの神のための建築計画は、神のダビデのための建築計画の妨げとなることを現した

と言います。

あなたはわたしの家を建てたい?忘れなさい。わたしがあなたに家を建てているのだ。ここでわたしが形造っている王国は、わたしのためにあなたが何をするかではなく、あなたを通してわたしが何をするかなのだ。わたしがここで建てている。あなたではない。わたしはあなたがわたしのためと建築を始めることによって、このことを混乱して欲しくない。・・・もし、わたしがあなたの建築計画を許可するならば、人々はわたしが何をしているかではなく、あなたがしていることに捉われてしまうだろう。・・・あなたはわたしが家を欲しいだとか必要だとかという考えをどこから得たのか?もし、そのような建築がなされるのならば、わたしがそれをする。わたしはあなたが羊飼いの時から働いている。あなたは、わたしが働いているということの象徴としてここにいる。あなたがしていることに注目させるためではない。

ダビデは、自分が神のためにすることを考えていました。

しかし、神がダビデのためにしていることに、ダビデは従順することを学ぶ必要がありました。

主語は「神」です。

2サムエル 6:16-23

「ダビデが自分の家族を祝福しようと戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。「イスラエルの王は、今日、本当に威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日、あなたは自分の家来の女奴隷の目の前で裸になられて。」」(6:20)

「サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。」(18:20)

そして、ダビデはサウル王との約束を果たして、ミカルを妻としました。

しかし、サウル王がダビデの命を狙ったので、ミカルはダビデを命懸けで逃がしました。

サウル王は、ミカルを別の人に嫁がせます。

逃亡中、ダビデも多くの妻と側女を娶ります。

サウル王の死後、ダビデはミカルを返してもらいますが、二人の関係は修復できないものとなっていました。

「ダビデの妻」ではなく、「サウルの娘」と記録されているところに、ミカルの悲劇を感じます。

肩書ではなく、一人の人として認めることがどんなに大切かが分かります。

2サムエル 6:1-15

「彼らは、神の箱を新しい荷車に載せて、それを丘の上にあるアビナダブの家から移した。アビナダブの子、ウザとアフヨがその新しい荷車を御した。」(6:3)

ダビデは神の臨在を示す神の箱をエルサレムに運び入れようとしました。

神の箱は祭司の肩に担がれて運ばれなければならないと聖書に書いてあります。

しかし、ダビデはより良い方法と思ったのか、荷車に載せました。

これはペリシテ人の方法でした。(1サムエル6章参照)

結果は悲惨でした。

ダビデは正しいことをしようとしましたが、間違った方法だったのです。

教会も同じ間違いを犯す危険があります。

聖書の御言葉ではなく、この世の方法で、神の目的を成し遂げようとしていないでしょうか。

聖書は言います。

「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」「主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」(使徒2:42,47)

神の働きを神の方法で行う必要があります。

2サムエル 5:13-25

「ダビデが主に伺うと、主は言われた。」(5:23)

ペリシテ人が攻め上ってきた時、ダビデは神に祈り、神はダビデにペリシテ人のところに攻め上るように言いました。

「ダビデはそこで彼らを討って、「主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた」と言った。それゆえ、その場所の名はバアル・ペラツィムと呼ばれた。」(20節)

ダビデはどんな敵でも打ち破られる主を体験しました。

それから22節で、再びペリシテ人たちが攻め上ってきます。

前回と同じようにすれば良いと思うのが普通だと思います。

しかし、ダビデは自分の判断に頼らず、再び主に祈り、主に伺いました。

今度は別の戦略を神はダビデに与えました。

「ダビデは主が彼に命じられたとおりにし」(25節)、

大勝利を収めました。

神に従うことは、神を分析し、神の法則を発見することではありません。

常に神に祈り、常に神に従い続けることです。

2サムエル 5:1-12

「ダビデは、主が自分をイスラエルの王として堅く立て、主の民イスラエルのために、自分の王国を高めてくださったことを知った。」(5:12)

「油を注ぐ」というのは、神がその人を特別な務めに選ばれたことを示しました。

ダビデは人生の中で三回油を注がれます。

まず、預言者サムエルから油を注がれます。

「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」(Ⅰサムエル16:13)

とあるように、それは信仰の油注ぎでした。

二回目は、2サムエル二章に出てきます。

全イスラエルの王ではなく、ユダ部族のみの王という希望の油注ぎでした。

そして、この五章では全イスラエルの王として、の油注ぎを受けました。

ダビデは自分をイスラエルの王として立ててくださったのは神であることが分かっていました。

だから、自分の栄光を求めることはありませんでした。

神が神の民を愛されるがゆえであると認識していたのです。

神が祝福されるのは、神が民を愛されているからです。

2サムエル 4:1-12

「ダビデは、ベエロテ人リンモンの子レカブとその兄弟バアナに答えて言った。「主は生きておられる。主は私のたましいを、あらゆる苦難から贖い出してくださった。」(4:9)

レカブとバアナはイシュ・ボシュテの軍の隊長でした。

彼らはダビデが喜ぶに違いないと自分たちで判断し、イシュ・ボシュテを殺害します。

彼らは祈って行動したわけではありませんが、このように言います。

「今日、主はわが王のために、サウルとその全家族に復讐してくださったのです。」(8節LB)

しかしダビデは知っていました。

彼を「あらゆる苦難から贖い出してくださった」のは主なる神であることを。

ですから、ダビデは自分の手でサウルを討つことはありませんでした。

私たちは自分の力で神を助けようとして失敗することがあります。

神は不正を喜ぶことはありません。

私たちは、自分の判断で物事を進めるのではなく、自分の人生を主に委ねていくことを学ぶ必要があります。

黄砂に吹かれて~

黄砂に吹かれまくった一週間、皆様ご無事でしょうか。

地球はまあるくつながっているのですね。

モンゴルの砂嵐が日本を通り過ぎ、スイスにまで到達するとの事。

いいものも悪いものもあっという間に地球を駆け巡ります。

昔では考えられない世界になりました。

道がなくてもインターネットを通して情報はリアルタイムで拡散され、何億と言う人が数秒で同じ情報を得ることのできるこの時代は、知る必要のない情報まで私たちの心に浴びせ続けます。

聖書の御言葉は私たちの心にとってオゾン層のような役目があるのではと思います。

無防備な状態で太陽からの有害な紫外線を浴びれば人体への深刻な打撃を受けるのと同様に、「あふれる情報」と言う有害な紫外線は私たちの心を蝕んでいきます。

毎朝御言葉というオゾン層で私たちの心を神様に守っていただきましょう。

聖霊様の助けを頂き、害となる情報を捨てていく作業は大切だと思います。

今週も主にあって体も心も健やかに過ごすことが出来ますように。

(小山晶子牧師人)

2サムエル 3:22-39

「この私は油注がれた王であるが、今日の私は無力だ。ツェルヤの子であるこれらの者たちは、私にとっては手ごわすぎる。主が、悪を行う者に、その悪にしたがって報いてくださるように。」(3:39)

ダビデの将軍ヨアブとその兄弟たちは、力ある軍人でした。

「しかし、ダビデはそのことを知らなかった。」(26節)とあるように、ダビデの知らないところでアブネルは殺害されました。

ダビデはヨアブとその兄弟たちを制御することができませんでした。

ダビデは自分でどうすることもできないことを認めて、主なる神のもとに持っていきました。

どうしたらいいか分からない時、私たちは主に持っていくことができます。

主が取り扱ってくださいます。

祈りによってすべてのことを主に持っていくことができることはなんという特権でしょうか。

平安を失い、必要のない痛みを抱えるのは、主のもとに持っていかないからです。

今日は主の日。共に、礼拝を捧げましょう。

2サムエル3:12-21

「アブネルはイスラエルの長老たちと話してこう言った。「あなたがたは、かねてから、ダビデを自分たちの王とすることを願っていた。今、それをしなさい。主がダビデについて、『わたしのしもべダビデの手によって、わたしはわたしの民イスラエルをペリシテ人の手、およびすべての敵の手から救う』と言われたからだ。」」(3:17,18)

イスラエルの人々は

「かねてから、ダビデを自分たちの王とすることを願っていた。」

と言います。

ところが、政治的な理由などでそれができなかったと言います。

しかし、

「今、それをしなさい。」

と促されます。

イエス・キリストの福音を聞いていても、イエス・キリストを自分の人生の王、救い主とする機会を失っている人たちがいます。

「今、それをしなさい。」

と促される必要がある人もいるのだと思います。

聖書は言います。

「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(2コリント6:2)

今がその時です。

「今、それをしなさい。」

2サムエル 3:1-11

「ダビデにはヘブロンで子が生まれた。長子はイズレエル人アヒノアムによるアムノン。」(3:2)

神は警告されました。

王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。」(申命記17:17)

しかし、今日の箇所で、ダビデに多くの妻と子がいたことが分かります。

結果的に、このことのゆえに問題が起こります。

聖書はダビデの失敗を隠すことはありません。

この箇所が私たちに教えていることは、神は不完全な人間を用いるということです。

神はどんなに弱さを抱えていても用いることができます。

このことは私たちに健全な視点を与えます。

どんなに用いられている人も完全ではありません。

神は完全です。

しかし、神が用いる人は不完全です。

ですから、人を神格化してはいけません。

そして、こんな自分でも神が用いてくださることを感謝しましょう。