使徒 20章

「このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」」(20:35)

教会の目的は収益ではありません。

地上の財産を蓄えても、天に蓄えていないならば、それはキリスト教会とは呼べません。

なぜならイエス様の教え(マタイ6:19-21)に反するからです。

弱い者、貧しい者を助けることは、天に宝を蓄えることです。

パウロは言います。

今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。」(1テモテ6:17-19)

使徒 19章

「彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えた。」(19:2)

聖書は

聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」(1コリ12:3)

と言いますから、主イエスの名によってバプテスマを受けた人は聖霊を受けているはずです。

しかし、

パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。」(6節)

とあるように、聖霊に満たされることを謙遜に求める姿勢も必要です。

なぜなら、私たちは聖霊に満たされる必要があるからです。

聖霊に満たされる方法は、祈り求めることです。

イエス様が言われました。

天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(ルカ11:13)

また、この箇所のように、手を置いて祈ってもらう(按手)ことを通して、聖霊が臨む世界があります。

使徒 18章

「ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」」(18:9,10)

新約聖書のパウロ書簡の中で、もっとも長いコリント人への手紙第一、第二の教会の始まりをここに見ることができます。

「恐れないで」ということは、この時、パウロが恐れていたことが分かります。

実際、パウロ自身がこう告白しています。

あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。」(1コリ2:3)

その結果、

私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。」(1コリ2:4)

と言います。

パウロが学んだこと、それは、

私が弱いときにこそ、私は強い」(2コリ12:10)

ということだと言います。

主の力は弱さの内に現れます。

使徒 17章

「エピクロス派とストア派の哲学者たちも何人か、パウロと議論していたが、ある者たちは「このおしゃべりは、何が言いたいのか」と言い、ほかの者たちは「彼は他国の神々の宣伝者のようだ」と言った。パウロが、イエスと復活を宣べ伝えていたからである。」(17:18)

エピクロス派は、神がたとえ存在していたとしても、遠い存在で、私たち人間とは関係がない存在と考えました。

その結果、自らの幸福の追求こそが、人生の目的と考え、波風を起こすようなものは極力避けるようにと教えました。

これに対しストア派は、基本的に汎神論で、「神」と「世界」は事実上同じことと捉えました。

自然の秩序と調和して生きる、目の前のことに一喜一憂せずに、自然の流れに従うようにと説きました。

28節の言葉はそんなストア派の哲学者の言葉です。

パウロが説いたのはエピクロス派の教えでもストア派の教えではありません。

イエス・キリストの復活です。よみがえられたキリストに希望があります。