詩篇 111篇

ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝をささげよう。直ぐな人の交わり、主の会衆において。」(111:1)

詩篇111篇は「ハレルヤ」で始まる「アルファベト詩」です。

「感謝」と訳された単語は「讃える」とも訳すことができ、賛美と感謝が本質的に一つの事柄であることが分かります。

「直ぐな人の交わり」も「主の会衆」もほぼ同じような意味で、礼拝に集まる会衆のことです。

私たちは個人的に主に感謝し、賛美することも大事ですが、主に礼拝を捧げる共同体として、共に賛美と感謝を捧げることも大切なことです。

また、詩人は言います。

良い人生は神を恐れることによって始まる。それを行いなさい。そうしたら、あなたは神の祝福を知る。」(10節MSG)。

聖書が教える知恵は、健全な神への恐れから始まります。

詩篇 110篇

「主は誓われた。思い直されることはない。「あなたはメルキゼデクの例に倣いとこしえに祭司である。」」(110:4)

出エジプト記以来、祭司はレビ族の家系でなければなりませんでした。

しかし、イエス様はダビデ王の子孫、すなわち、ユダ族でした。

したがってイエス様の祭司職の論拠は、その前の創世記14章に出てくるメルキゼデクです。

メルキゼデクに等しい永遠の祭司です。

このポイントは新約聖書のヘブル人への手紙の中で詳しく論じられます。

大事なのは次の点です。

イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」(ヘブル7:24,25)

イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、イエス・キリストを信じる者の罪は贖われ、死の滅びから救われます。

詩篇 109篇

「私は祈るばかりです。」(109:4)

ダビデの体験は昔も今も変わりません。

彼らは、善に代えて悪を、愛に代えて憎しみを、私に返しました。」(5節)

残念ながら、

彼らは、憎しみのことばで私を取り囲み、ゆえもなく私に挑んできます。」(3節)

ということがあります。

ダビデの言葉はあまりにも激しくて、どう解釈していいか悩みます。

しかし、このような激しい言葉を口に出して読むことを通して、私たちの心は取り扱われます。

もちろん、イエス様は言われました。

自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)

だからと言ってこのような詩篇の言葉を口にすることはそれに反することではありません。

私たちの感情は取り扱われる必要があるからです。

これらの詩篇を読むことを通して、ダビデと同じように、私たちは言います。

私は祈るばかりです。

祈りに導かれることはすべて良いことです。

詩篇 108篇

「主よ。私は諸国の民の間で、あなたに感謝し、もろもろの国民の間で、あなたをほめ歌います。」(108:3)

詩篇108篇は、前半は詩篇57篇、後半は60篇とほぼ同じ言葉が綴られています。

詩人は二つの詩篇を合成して歌いました。

私は暁を呼び覚まそう。」(2節)

と言う表現は、パウロとシラスが真夜中に賛美をした(使徒16:25)ように、暗闇で歌うことの意味を示唆していると考えられます。

賛美には力があります。

主への賛美が夜明けをもたらします。

なぜなら、

あなたの恵みは大きく天の上に及びあなたのまことは雲にまで及ぶからです。」(4節)

神の信実の愛(へセド)はあまりにも偉大で天を越える、すなわち、私たちが見ることができる現実を超えます。

だから私たちは、目に見える現実に打ちひしがれるのではなく、信仰によって主を賛美する必要があります。

そして、「諸国の民の間で」とあるように、主への賛美を多くの人々と共有する必要があります。

テレホンカード

久しぶりに開けた引き出しの中からテレホンカードが出てきました。

携帯電話の普及ですっかり使わなくなっていましたからちょっぴりなつかしい気持ちになりました。

そういえば以前は好きなアイドルや動物の写真が印刷されたテレカを集めている人がいたり、もっと前だと切手収集やウルトラマン消しゴムの収集、牛乳瓶の蓋収集などなど、かなり多くの人が何かしら「集める」ということをしていたのではないかと思います。

なぜ人は「集める」ことが好きなのでしょう?

人によってもちろん理由は様々だと思いますが自分自身を振り返ってみるとわたしは「聖書時代の考古学に関係するものを集める」ことが大好きです。

それは書籍、写真、ランプなどの「物」などあらゆるジャンルに及びます。

聖書の世界に近づけるツールを見つけるとわくわくします!

もしも世界中にあるものの中でどれでも一つ、コレクションとして持ち帰ってもいいと言われたら、、、

私は迷わず大英博物館にあるラキシュ攻略の壁画を選びます。

ああ、もういちど、みにいきたいなあ。

イースターおめでとうございます。

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 107篇

「波が凪いだので彼らは喜んだ。主は彼らをその望む港に導かれた。」(107:30)

「その望む港」、彼らの望み/願いの港にたどり着くためには、人生の海の嵐を乗り越えていく必要があります。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から導き出された。」(28節)

とありますように、大事な点は誰に向かって叫ぶかです。

小坂忠先生の歌にこのような歌があります。

目指す光もなく  闇をゆく船は

心安まる時がない  夜が明けるまでは

やがて朝がきて  鳥が歌い出しても

光もたないその心に  歌は生まれない

君の行く道を  照らす光はあるか

心安らぐその港に  君が帰るまで

イエスは光  闇を照らし  君を導く

(イエスは光)

今日はイースター(復活祭)。

主は確かによみがえられました。

私たちの行く道を照らし、心安らぐ港に導いてくださいます。

このお方に、共に礼拝を捧げましょう。

詩篇 106篇

「主は幾たびとなく彼らを救い出されたが、彼らは相謀って逆らい、自分たちの不義の中におぼれた。それでも、彼らの叫びを聞いたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。主は彼らのためにご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みにしたがって、彼らをあわれまれた。」(106:43-45)

106篇には、旧約聖書に出てくるイスラエルの民のこれまでの歩みがわかりやすく記されています。

神を、時には信頼し、時には裏切り、また悔い改めて立ち返る、といった身勝手な振る舞いに、私たちは心を痛めます。

自分の姿と重ね合わせてしまうからだと思います。

慰めは44節です。

それでも、あなたはひたすら待ち続けました。彼らが立ち返り、御父の助けを求め叫ぶのを。そして、あなたは彼らの叫びを聞いたときあなたは怒りを鎮め、契約を思い出されました。そして、再び彼らに心を向けました。あなたの豊かな、溢れるような、限りない愛で。」(TPT)

詩篇 105篇

「主に感謝し、御名を呼び求めよ。そのみわざを諸国の民の間に知らせよ。」(105:1)

詩篇105篇は、神がなされた救いの御業が歌われています。

私たちは、神の御業を全ての人々に伝えるように命じられています。

神の不思議な御業を音楽に翻訳しなさい。」(2節MSG)

とありますが、神の御業を歌にして、人々に知らせるようにと言います。

今日は聖金曜日、キリストが十字架にかかられたことを覚える日です。

キリストは私たちの罪のために十字架にかかり死なれました。

私たちの代わりに罪の呪いを受けてくださいました。

キリストの十字架の御業のゆえに、キリストを信じる者が罪に定められることはありません。

主がなされた救いの御業を思い出し、歌にし、一人でも多くの人に知らせることができますように。

詩篇 104篇

「そこを船が行き交い、あなたが造られたレビヤタンも、そこで戯れます。」(104:26)

「レビヤタン」は神話上の怪物と理解されたり、恐竜と理解されたりしますが、ギリシア語七十人訳では「ドラゴン」と訳しています。

いずれせよ、神はそのような怪物でさえも造られたと言います。

すなわち、神の力を上回る存在はないということです。

驚くことは、そのような偉大な神のひとり子、イエス・キリストが人となってこの地に来られ、弟子たちの足を洗われたという事実です。

今日は洗足木曜日、最後の晩餐の時のことを覚える日です。

弟子たちの足を洗った神のひとり子の愛の深さ、恵みの深さに心を留めたいと思います。

そして同時に、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:15)と言われたことも心に留めたいと思います。

詩篇 193篇

「わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒やし、あなたのいのちを穴から贖われる。主は、あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、あなたの一生を、良いもので満ち足らせる。あなたの若さは、鷲のように新しくなる。」(103:2-5)

詩人は

あなたが私にしてくださった優しさの奇跡をどうして忘れることができるでしょうか」(TPT)

と言います。

私たちはつらかったことや傷つけられたことは忘れないという傾向があると思います。

けれども、詩人は、神がしてくださった「良い」ことに焦点を合わせるようにと言います。

私たちは何よりも、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、私たちの過去、現在、未来の罪を赦していただいたことを忘れてはいけないと思います。

否定的にならず、主の恵みを数え、主を恐れ、主をあがめることができますように。