詩篇 65篇

「祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。」(65:2)

主なる神は「祈りを聞かれる方」です。

私たちの祈りは天にのぼっています。

ルイ・ギグリオ(Louie Giglio)という伝道者がこんなことを言っています。

「もし私たちが祈るとき、何が起こるかが分かっていたなら、私たちは祈ることをやめることはないでしょう。」

私たちが祈り求める神は、私たちの「祈りを聞かれる方」です。

神は何でもできるお方ですが、私たちの祈りを用いられるお方です。

もし、私たちが祈ったがゆえに起こったことを見ることができたならば、祈らずにはいられなくなるはずです。

私たちが祈る時、神の御国がこの地にもたらされます。

私たちが祈らなければ起こらなかった「偶然」があります。

天の御国で、私たちは知ることでしょう。

私たちの祈りが、どれほどの違いをこの地にもたらしたかを。
今日は主の日。共に「祈りを聞かれる方」、主なる神に礼拝を捧げましょう。

詩篇 64篇

「彼らは、その舌を剣のように研ぎ澄まし、苦い言葉の矢を放っています。」(64:3)

人を傷つけるものは目に見える凶器だけではありません。

苦い言葉、「情け容赦ないことば」(LB)は、人を傷つけ、絶望の淵へと追いやります。

他者に対して意見を表明する際には、時に、その人の心や立場を傷つけることもあるということを常に心にとどめておく必要があります。

しかし、人を生かすのもまた言葉です。

生きたことば、命と愛に満ちた言葉は私たちを絶えず前向きな気持ちにし、励ましてくれます。

ですから聖書は言います。

悪意のこもったことばを口にしてはいけません。相手の益となり、助けとなること、また、祝福を与えることだけを話しなさい。」(エペソ4:29LB)

言葉を発する時、想像力を働かせ、その言葉が本当に相手の益となるかということを考えることも大切です。

信仰的、肯定的、前向きな言葉を用いることができますように。

詩篇 63篇

「私はあなたの力と栄光を見るためにこうして聖所であなたを仰ぎ見ています。」(63:2)

「仰ぎ見ています」というのは生ける神との信仰の次元における出会いを指しています。

ですから、この箇所の「聖所」は、神の臨在が満ち溢れる教会の礼拝を想定することができると思います。

私たちは生ける神の力と栄光を拝するために教会に集います。

そして、共に集まり、賛美と礼拝を捧げる中で、神の力と栄光を体験します。

パッション訳では二節をこう訳しています。

あなたの天の聖所に入るたびに、私は元気をもらいます。あなたの力をもっと求めるために、あなたの栄光をもっと飲むように。

日々の生活の中で、私たちは詩人と同じようにうえ渇きを感じます。

しかし、神の栄光輝く臨在の中で、私たちは潤され、満たされ、元気をもらいます。

ですから、主に賛美と礼拝を捧げることは重要です。

詩篇 62篇

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」(62:1)

「私の救いは神から来る。」

という箇所をLBは

「救うことができるのは神だけですから。」

と訳しています。

私たちは黙って神を待ち望むためには、

「救いは神から来る」

ということ、

「救うことができるのは神だけ」

ということを受け止める必要があります。

使徒パウロは非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどの時、

「私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。」(Ⅱコリント1:9)

ということを悟りました。

パウロは黙ってというよりも、黙らされて、神を待ち望み、救うことができるのは神だけということを体験したのです。

リック・ウォーレン師はこんなことを言っています。

「神は自ら助くる者を助けない。神は神を頼る者を助ける。」

詩篇 61篇

「私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたを呼び求めます。どうか、及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。」(61:2)

「地の果てから」というのは、絶望の象徴的表現と理解できます。

詩人は、挫折を体験し、自分の無力さを思い知らされました。

もはや自分の力では一歩も前に進めない。

自分の能力だけでなく、自分の支えとしてきたものすべては確かな基盤となり得ないことを体験します。

その中で詩人は、自分の力では及ばない、確固たる存在、主なる神を体験します。

しかし、個人的なレベルでは終わりません。

詩人は言います。

神様、あなたはいつも私のことを真剣に考え、あなたを知り、あなたを愛する人々の中に私を迎え入れてくださいました。」(6節MSG)

神は、私たちの信仰の歩みを、信仰の共同体である教会と共にあるようにされました。

私たちは祈りを共有し、互いに祈り合うことを通して、感謝を共有します。

詩篇 60篇

「神にあって、私たちは力ある働きをします。」(60:12)

「神にあって」は、もちろん「神によって」と具格として理解し、「神の助けによって」と理解することもできます。

しかし、同時に位格として理解し、「神の中で」(in God)とも訳せます。

自分をどの位置に置くかが、私たちの人生に影響を与えます。

ダビデは、自分を神の中に置くことによってベストを尽くすことができました。

自分を神の中に置くことを意識することは汎神論とは違います。

神の臨在を意識して生きていくということです。

これが、私たちが力強く生きていくために重要です。

人にはできないことも神にはできます。

神の中に生きているならば、私たちの能力を超えたすばらしいことを期待することができます。

それは、自己満足の世界ではなく、神の御国をこの世界に体現していくことです。

イエス・キリストの十字架と復活を通して、神の御国がこの世界にはじまっていることを体現する人生です。