詩篇 42篇

「私のたましいは、神を、生ける神を求めて、渇いています。いつになれば、私は行って、神の御前に出られのでしょうか。」(42:2)

「あなたは私たちをあなたに向けて造られ、私たちの魂はみもとに安らうまで安んじることはありません」

とアウグスティヌが言ったように、生ける神との関係によってでしか満たされない渇きが、すべての人の内にあります。

ですから詩人は歌います。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(1節)

詩人が伝えたいのは、新鮮な水でなければ満足できないということです。

昔の体験、誰かの体験で満足することはできません。

私たちは今、自分自身で神との時間をもつ必要があります。

イエス・キリストは過去の偉人というだけではありません。

今、生きておられ、私たちは今、御前に出て行くことができます。

イエス様は言われます。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

詩篇 41篇

「私の誠実さゆえに私を強く支えてください。いつまでもあなたの御前に立たせてください。」(41:12)

ダビデの心は複雑でした。

彼を憎み、彼に対して悪を企む人たちがいたからです。

ダビデは言います。

私が信頼した親しい友が、私のパンを食べている者までが、私に向かって、かかとを上げます。

ダビデは、信頼していた人たちからも裏切りを体験しました。

しかし、ダビデは言います。

「あなたは敵が私に勝ち誇ることをお許しになりませんでした。私は自分があなたの目にかなっていることを知りました。」(11節LB)

誰が悪口を言ったとしても、神が自分を喜んでおられることを知っていたのでダビデは揺らぐことがありませんでした。

彼は何があっても神に対する誠実さを捨てることはありませんでした。

彼の究極的な願いはいつも神の臨在だったからです。

神の臨在だけが彼の本当の必要を満たすことができることを知っていたからです。

詩篇 40篇

「あなたを慕い求める人たちがみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主は大いなる方」と、いつも言いますように。」(40:16)

「主は大いなる方」です。

主なる神を大きくする時、問題は小さくなります。

問題が大きく感じるのは、私たちが主なる神を小さくしているからです。

私たちはいつも、主なる神の偉大さを告白する必要があります。

輝く日を仰ぐ時、月星眺める時、雷鳴り渡る時、森にて鳥の音を聞く時、そびゆる山に登る時、谷間の流れの声を聞く時、この大自然を創造された創造主である神がどんなに偉大なお方か、歌い続ける姿勢が大事です。

そして、私たちは主なる神の偉大な御業を自分だけのものとするのではなく、大きな会衆で分かち合う必要があります。(9,10節)

その日を待ち望みつつ、主の偉大な御名を賛美しましょう。

主は私たちの助け、私たちを救い出すお方です。

詩篇 39篇

「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないように。口に口輪をはめておこう。悪しき者が私の前にいる間は。」(39:1)

「あなたからの疾患を私から遠ざけてください」(11節月本訳)

と詩人が祈るように、詩人は病苦にあったことが考えられます。

その中で、詩人は一つの決心をします。

「私は自分に言い聞かせました。「不平を言うのはやめよう。特に、神を信じない者たちがそばにいる間は。」」(1節LB)

入院をしたり、病に臥したことがあれば理解できる内容だと思います。

詩人は病状が悪化したのか、語らずにいられなくなり、4節以下の祈りへとつながります。

「主よ、地上で生きる年月などわずかであることを私にわからせてください。ここにいるのもあとほんの少しだと、思い知らせてください。」(4節LB)

人間のはかなさを認識することは大切なことです。

しかし、同時にキリストを信じる者には、永遠の世界があることも覚える必要があります。

※ SSCの役員会はまん延防止等重点措置が解除されるまで教会堂を閉鎖する決定をいたしました。皆様の上に神様の特別な守りと助けがありますようお祈りしています。
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詩篇 38篇

「主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きは、あなたに隠れてはいません。」(38:9)

ダビデは自分の愚かさが招く苦しみを理解していました。

それは私の愚かさのためです。」(5節)

と告白しています。

ダビデは自分の過ちだけでなく、反対者にも対処しなければなりませんでした。

私のいのちを求める者は、罠を仕掛け、私のわざわいを願い求める者は、私の破滅を告げ、絶えず、欺くことを語っています。」(12節)

ダビデは言葉を失います。

しかし私は、彼らが脅す声を聞かないようにしています。口がきけない人のように、黙りこんでいます。」(13,14節LB)

私たちを襲う辛辣な言葉は聞き流すということを学ぶ必要があります。

なぜなら、私たちはダビデと同じように、

「主に望みを託しているからです。」(15節LB)

私たちはダビデがそうしたように祈りに変える必要があります。

神の道は祈りの小石で敷き詰められています。

立春

まだまだ寒い日々ですが、暦の上では立春を迎えました。

二月に入り、今まさに春からの進路に向けて受験真っただ中、という人もいると思います。

多くの人が不安や恐れを感じている中で、教会に集まることが難しいこの状況が一日も早く終わることを祈る日々。

ワクチンの存在はありがたいのですが三度目、四度目を打っている先進国と未だ一度も打てていない国々の存在、食料の無料配布を求める多くの人々と収入を何倍にも増やしたごく一部の富裕層。

コロナ禍によってあらわになった沢山の矛盾の中で私たちは混乱や怒り、焦燥感が閉塞感と相まってこころを支配しているような気がします。

キリスト者の強みは「どんな境遇にあっても満ち足りることを知っている」ことだと思います。

きょうも神様の恵みを数えていきましょう。

感謝をささげる場所に聖霊様は吹いてくださいます。

主の臨在に入るためのパスワードは「ありがとう」。

これは今年も変わりません。

今週も感謝の思いを携えて主に礼拝を捧げ、祝福のなかでスタートすることができますように。 (小山晶子牧師夫人)

詩篇 37篇

「全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。平和の人には未来がある。」(37:37)

「平和」と訳された単語は「シャローム」です。

ですから、「シャロームの人には未来がある」と訳せます。

将来、希望がシャロームの人にあると言うのです。

素晴らしい神の約束だと思いませんか!

原文は「シャロームの人」の前に、「なぜなら」(または「じつに」)という接続詞が入ります。

つまり、「シャロームの人」には将来があるから、「全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。」と言います。

つまり、「シャロームの人」とはこの詩篇に出てくる「正しい人」のことです。

希望があるのは、「正しい人の救いは主から来る」(39節)からです。

詩人は言います。

「主によって人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は転んでも倒れ伏すことはない。主がその人の腕を支えておられるからだ。」(23,24節)
今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

詩篇 36篇

「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、私たちは光を見るからです。」(36:9)

私たちはどこに自分のいのちの泉を見出そうとしているでしょうか?

どこに光を見出そうとしているでしょうか?

イエス・キリストは言いました。

わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)

イエス・キリストが与えてくださる救いを受け取る時、私たちの内には聖霊が住んでくださいます。

日々、聖霊に満たされることを求めるならば、私たちはいのちの泉を体験することができます。

他の何か、他の誰かを求めてしまっているがゆえに、渇いているということはないでしょうか?

聖霊なる神様がいのちの泉です。

聖霊を求めて祈りましょう。

「注いでください。あなたの恵みを」(10節)

2/4の祈祷会、2/6の主日礼拝に関して

※ 新型コロナの急速な感染拡大のため。本日(2/4)の祈祷会、日曜日(2/6)の主日礼拝はライブ配信のみと対応させていただきます。

皆様の上に神様の特別な守りがありますようお祈りしています。

>祈祷会のライブ配信は、金曜日19時半からです。
こちらからご覧ください。

>主日礼拝のライブ配信は、日曜日10時25分からです。

こちらからご覧ください。

 

詩篇 35篇

「私の義を喜びとする者たちが喜びの声をあげ楽しむようにしてください。彼らがいつもこう言うようにしてください。「主は大いなるかな。ご自分のしもべの平和を喜ばれる方は」と。」(35:27)

後半部分を新改訳第三版では、

ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな。

と訳しています。

「平和」と訳し直した「繁栄」と訳された単語は「シャローム」です。

シャロームは単に争いがない状態を指しません。

不当な抑圧を見て見ぬふりをするような平和は、シャロームとは呼べません。

「ご自分のしもべの」とありますが、神の国の価値観をもった人々が繁栄し、成功することを神は願っておられます。

ですから、繁栄することが悪いことではなく、繁栄をどう用いるかが問題です。

繁栄を目的に生きていく時に、人生は崩れていきます。

しかし、過度に繁栄を否定するべきではありません。

神はご自分のしもべが繁栄することを願っておられるからです。