大寒に~負けた~♪

今シーズンずっと出さずに我慢していたアレをとうとう出してしまいました、、、。

そう、コタツです。

出してしまうとそこから逃れられなくなりそうなので、家族からの再三の要望も拒否してきたのですが、暦の上では大寒前夜の先週水曜日、寒さに耐えきれなくなった私はあたかも家族の希望に応えたかの如く「コタツ、出そうか?」と。

そしてまんまとこの原稿をいまひとりでコタツに入って書いているわけでございます。

冬ってやっぱり寒いですね。

でも、寒いからこそコタツの暖かさが幸せをもたらしてくれます。

春の訪れが待ち遠しいのも冬があるからこそ。

そう考えると「試練」は希望の光であるイエス様を見つけやすくするため、「孤独」は、本当は一人ではなく神様に愛されていることに気付きやすくするためのように思います。

空を見上げてみてください。

神様のあなたへの愛はこの空よりも広く、高いのです。

信じられませんか?

でも、本当なのです。

「かみさま」とひとこと声を出して呼びかけてみてください。

あなたの中で、きっと何かが変わります。

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 23篇

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(23:1)

誰が自分の人生の羊飼いであるかはとても重要なことです。

キリストは言いました。

わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)

私たちが、日々の生活の中で優先して耳を傾け、その後についていっている存在が私たちの人生の羊飼いです。

それは、人とは限りません。

ある種の哲学や思想、また、富や名誉などの可能性もあると思います。

イエス・キリストはおっしゃられます。

わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。」(ヨハネ10:14)

イエス・キリストが自分の羊飼いであるならば、乏しいことはありません。

なぜなら、キリストは私たちのことをすべてご存知な上で導いてくださるからです。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

(県内のコロナ感染者が急激に増加しているため、本日の主日礼拝は10:25より配信のみとなります。)

明日(2022年1月23日)の主日礼拝

明日(1/23)の栄シャローム福音教会の主日礼拝は、コロナ感染者の急激な増加のため、配信のみとさせていただきます。

ライブ配信は10:25からです。

https://youtu.be/f7dqnnZC0Bo

WL: 小山晶子牧師夫人

聖書のメッセージ:小山英児牧師

聖書箇所:詩篇19篇

タイトル:『天は告げ知らせる』

…………………………………….

※ 来週に関しては、教会のライン、facebookページ、デイリーデボーションなどでお知らせします。

ご質問、祈祷課題がある場合は info@sakaeshalom.org まで。

https://youtu.be/f7dqnnZC0Bo

 

詩篇 22篇

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず、遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。」(22:1)

詩人の体験からも、信仰者が神の不在を感じることは、今も昔も変わらない一般的なことであることを知ることができます。

信じていても見捨てられたように感じる時があります。

賛美を捧げていても疑いをもってしまう時があります。

聖書を読んでいても、暗闇を感じてしまう時があります。

イエス・キリストが十字架で救いの御業を成し遂げる時に、この詩人と同じ祈りを捧げたことは注目に値します。

キリストがこの箇所を口にされたことを通して、私たちは今、不在と感じるその所に、神は確かに存在され、神の御業が確かに成し遂げられていたことを知ることができます。

逆境は、神が私たちを見捨てられたということではなく、このことを通して神の栄光が現わされるということです。

ですから、詩篇22篇は主への賛美で閉じられます。

本日(1/21)の祈祷会

本日(1/21) は19時半より祈祷会ですが、
コロナ感染者の急激な拡大のため、YouTubeのライブ配信のみで行います。
リンク先が変わりました!ご注意下さい。
こちらからご覧ください。
https://youtu.be/no0D-xG_jVE
共に祈りましょう!
日曜日については、現在、役員会で調整中です。

詩篇 21篇

「主よあなたの御力のゆえにあなたがあがめられますように。大いなる御力を私たちは歌いほめ歌います。」(21:13)

私たちの信じている神は、力ある神です。

死の力を打ち破るほどの力あるお方です。

LBでは今日の箇所をこう訳しています。

ああ主よ、この賛美をお受けください。御力を賛美しているのですから。私たちは主の力強いみわざをたたえて、賛美の歌を歌いましょう。

私たちは神の力強いみわざを歌うように促されています。

神の御力をたたえて、賛美の歌を歌うことは、聖書が教えていることです。

さらに、7節にこうあります。
王は主により頼んでいるので、つまずいたり倒れたりすることは絶対にありません。あらゆる神々にまさる神の変わらない愛に、頼りきっているからです。」(LB)

「変わらない愛」と訳された単語が「へセド」、「信実の愛」です。

神の「信実の愛」、十字架の御業による新しい契約に生きることができますように。

詩篇 20篇

「ある者は戦車を、ある者は馬を求める。しかし私たちは、私たちの神、主の御名を呼び求める。」(20:7)

新改訳三版までは「誇る」という動詞が補われてきましたが、動詞は末尾の「唱える」だけです。

「確信を持つ、頼る」とも意訳できます。

「主の御名」は、神のご性質を示します。

「主の御名」を「呼び求める」、「頼る」ということは、神を「いと高き神、ご覧になる神、全能の神、義なる主、勝利の主、ここにおられる主、癒し主、羊飼いなる主、備え主、聖め主、万軍の主、平和の主」と、確信することです。

困難な時、どうして私たちは神よりも人からの助けを期待し、思うような助けを得られないと苛立つのでしょうか。

祈って神の導きを待ち望むよりも、人の助言に走ってしまうのでしょうか。

神がどういうお方であるか、確信する必要があるのではないでしょうか。

主の名は堅固なやぐら。正しい人はその中に駆け込み、保護される。」(箴言18:10)

詩篇 19篇

「主のおしえは完全でたましいを生き返らせ主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。」(19:7)

聖書のみことばとは何かがここで並べられています。

聖書のみことばは第一に「完全」です。

聖書以外の場所に人は神のことばを求めるべきではありません。

第二に、聖書のみことばは「たましいを生き返らせ」ます。

聖書のみことばは、人生を立て直す力があります。

第三に、聖書のみことばは「確か」です。

確実で、信頼できます。

第四に、聖書のみことばは私たちを「賢く」します。

箴言にこういう箇所があります。

では、どうしたら賢くなれるのでしょう。まず主を信じ、主を大切にすることです。」(箴言1:7LB)

聖書のみことばには力があります。

なぜならば、今生きておられる神のみことばだからです。

主を信じ、主を大切にする人は、主のことばである聖書のみことばに耳を傾けます。

詩篇 18篇

「私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ、御前への叫びは、御耳に届いた。」(18:6)

この詩篇は、ダビデが晩年、自分の生涯を回顧して記したと言われます。

彼の人生は波乱万丈でした。

サウル王に命を狙われたり、息子のアブサロムに命を狙われたり。

しかし、そんな中で彼は人生の秘訣を見出しました。

それは、主を呼び求めること、祈ることでした。

壁にぶつかった時、キリスト者は祈ります。

祈りに追い込まれることはすべて良いことです。

もちろん、苦しみがなくても祈ることは大事です。

ダビデは「主は生きておられる。」(46節)と歌います。

祈りに追い込まれることを通して、神が本当に生きておられるということを体験したのだと思います。

イエス様も言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。」(ヨハネ16:23)

詩篇 17篇

「しかし私は義のうちに御顔を仰ぎ見目覚めるとき御姿に満ち足りるでしょう。」(17:15)

ダビデの祈り、それは何よりも横暴な敵が処罰されることでした。

ダビデは訴えます。

主よ、立ち上がり、戦ってください。彼らを追い返してください。早く来てくださり、地上の利得しか考えていないこの世の人々から私を救ってください。神は彼らの家をご自身の宝で満たされたので、彼らの子も孫も裕福になりました。」(13,14LB)

不条理に見えるこの世界で、ダビデは神が裁がれる朝を待ち望みます。

しかし、私の関心は富にはなく、私が神を見ているかどうか、また、神と正しい関係にあるかどうかにあります。私は天で目覚めるとき、この上ない満足感にひたるでしょう。神の御顔をじかに見るからです。」(15節LB)

この地上の利得に心を奪われるか、それとも、神を認め、神との正しい関係に生きるか、神が裁かれる朝は来ます。