エペソ 4章

「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。」(4:32)

キリストを信じる者とは「霊と心において新しくされ続け」(23節)る者です。

「心」と訳された単語は「思考」を意味します。

しかしあなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません。」(20節)とありますように、私たちは聖書を学び、考え方を刷新する必要があります。

ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」(17節)

私たちはこの世の考え方に同調するのではなく、キリストの考え方に刷新される必要があります。

具体的な考え方の一つはこれです。

互いに親切にし、愛情をもって接しましょう。神はあなたを寛大に赦してくださいましたか?では、キリストの愛の深さに基づいて、互いに寛大に赦し合ってください。」(TPT)

紅海のおもいで

ビブリオン(聖書を学ぶ会)ではいま出エジプト記を一章ずつ学んでいます。

教会学校の教材も最近ずっとモーセについてだったこともあり、私の頭の中もかなりエジプトな感じになっています。

30年近く前、はじめてエジプトに行ったとき紅海が紅い海ではないことにとても驚きました。

それは今までに見たことがないほど、透明で美しい水をたたえた海の姿だったのです。

訪問が夏だったこともあり、青空と眩しい太陽の下できらきらと輝く水晶のような海の景色は一瞬自分がどこにいるかを忘れてしまいそうになるほどでした。

そんな海辺で宿営していたイスラエルの民は、きっとこの時の私と同じようにその美しさに感動したのはなないかしら、とふと思いました。

ようやく脱出できたという安ど感をもしかしたらここで初めて感じることができたのかもしれません。

しかし、ほっとしたのもつかの間、ファラオの軍勢がイスラエルの民に襲い掛かってきます。

映画「十戒」の最も印象的な場面を思い出しつつお別れしましょう。

さよなら、さよなら、さよなら。

(小山晶子牧師夫人)

エペソ 3章

「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」(3:19)

「人知をはるかに超えた」ことを「知る」ことは、矛盾した表現です。

「キリストの愛」を知ることは人間の認知機能を超えていて、祈らなければ開かれない世界です。

前節に「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり」とありますように、信仰の共同体、教会で共に礼拝を捧げなければ開かれない世界です。

「キリストの愛」を知ることによって人は本来あるべき姿、神のイメージに生きることができます。

ですから、「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方」(20節)に、共に祈りましょう。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

エペソ 2章

「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」(2:21,22)

21節も22節も「この方(=キリスト)の中で」という言葉で始まっています。

そして、「主の中で聖なる宮になる」と「聖霊の中で神の御住まいとなる」ということばで、それぞれ閉じられます。

神殿も神の御住まいも、天と地が交わる場所ということです。

それは「キリストの中」、イエス・キリストとの関係の中にあると言います。

教会、キリストを信じる者たちが集っているその場所は、天と地が交わる場所です。

共に集まり、共に礼拝を神に捧げるこの場所、この中で、人はイエス様にお会いすることができます。

賛美は天に属するものです。

私たちが賛美に満ち溢れる時、天はこの地に来ているのです。

エペソ 1章

「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(1:23)

キリストは「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」です。

どんなものでも、どんなやり方でも、満たし続けるお方です。

人は満たされる必要があります。

イエス・キリストだけが、「すべてのことを、あらゆる方法で」満たしてくださるお方です。

教会は、このキリストが「満ちておられるところ」です。

アルゼンチンのリバイバリスト、フレーソン先生はこんなことを言っています。

私のミニストリーでは、神のみことばを説教することを通して、祈りと賛美によって、会衆を神の臨在の中に、神と顔と顔を合わせられるようにしている。これが起こるとき、私たちは神のきよさに直面し、目に見える形で砕かれる。私たちは神の臨在によって震える。神の前に誰もそのままの状態ではいられない。器が壊れるとき、油注ぎが流れ、神の油注ぎが私たちの人生を変える。

ガラテヤ 6章

「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」(6:5)

「重荷」と訳された単語は、兵士が行進の時にかつぐ「リュックサック」などに用いられる単語です。

人にはおのおの負うべき「リュックサック」があると言います。

ともすると、自分だけがこの「リュックサック」を背負っている気がしてしまうことがあると思います。

しかし、心配しなくても、一人一人に神がちょうど良い重さの「リュックサック」を与えていると聖書は言います。

しかし、現実を見ると、ひとりでは負いきれないような重荷があるように見えます。

このような大荷物、重くて負担になる「重荷」を5節とは違う単語で2節で次のように使用しています。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。

互いに祈り合い、励まし合い、具体的に助け合うことを通して、キリストの律法を成就するために、そのような重荷があることを心に留める必要があります。

ガラテヤ 5章

「私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」(5:25)

聖書は言います。

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(22,23節)

どうやって人は「御霊の実」を結ぶことができるのでしょうか。

パウロの答えはこれです。

もし、聖霊によって生きているならば、聖霊によって歩もう。」(25節・私訳)

ライト教授はこのように言います。

人格はゆっくりと形づくられるもの。準備ができていない木に、どんなに実をつけるように強いてもダメなように、誰かの人格を強いることはできない。その人は、何度も何度も、素晴らしい人格が形づくられるための道徳的な筋肉や技術を発達させることを選択しなければならない。

「聖霊の実は一夜にしてならず」と言うことです。

時間がかかります。

ですから、これは聖霊によると言うことを理解する必要があります。

ガラテヤ 4章

「私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(4:19)

ある聖書学者はこう言います。

「パウロは、ガラテヤの人たちの中にキリストが見える形で生きているのを見たいと願っている。–彼らの生き様の中にキリストの似姿が現されることを見ることを」。

私たちの生き様の中に「キリストの似姿」が現されているでしょうか。

聖書は言います。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)

つまり、大事なことはキリストから目を離さず、聖霊に働いていただくことです。

キリストから目をそらすならば、「あなたがたのことで私は途方に暮れているのです。」(20節)となってしまいます。

ガラテヤ 3章

「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(3:28)

哲学者のソクラテスは、毎日、このように言っていました。

「感謝すべき幸運、三つの祝福がある。一つは、獣ではなく、人間として生まれたこと。次は、女性ではなく、男性に生まれたこと。三つ目は、野蛮人ではなく、ギリシア人であること。」

使徒パウロがそのことを知っていた可能性はありますが、人が、イエス・キリストとの交わりの中に入ってくるならば、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由人であろうと、男性であろうと女性であろうと、差別はもう存在しないと言います。

違いがなくなるということではありません。

イエス・キリストの十字架のもと、すべての人は同じ地面に立っているということです。

キリストの中で、人種(race)、社会的地位(social status)、性別(gender)の優劣はありません。

リトリート

新型コロナの影響とともに、最近暑くなってきたこともあり窓を開けて過ごすことが増えてきました。

幹線道路沿いということもあり、開けた途端様々な音のシャワーにさらされます。

車の通行音はもちろん、クラクション、ドアの開閉、人の話し声、鳥の鳴き声、救急車、ヘリコプター、靴の音、バイク、軍用機、、、

起きている間無音の時間は一秒もありません。

発達障害の特性として聴覚が過敏なこともあり、様々な音にさらされてしまうと本当に疲れます。

聖書を読むと、イエス様も頻繁に静かな場所、一人になれる場所に退かれたことが分かります。

一人になることは一見孤独になるように感じますが自分自身を取り戻すための時間、神様の声だけを聴く時間だったのだと思います。

まさにリトリート(回復・避難)の時間をイエス様でさえしばしば必要としていたということです。

私のように実際の「音」に過敏でなくてもネットやテレビからあふれる様々な「声」につかれている人も多いでしょう。

全ての電源を消し、リトリートに時間を持つことは、あなたを守ります。

(小山晶子牧師夫人)