1歴代誌 19:1-22:1

「しかし、ダビデ王はオルナンに言った。『いいえ、私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです。』」(21:24)

ダビデは王でしたが、祭壇を建てるためにオルナンから土地を搾取することはしませんでした。さらにオルナンから「すべてを差し上げます。」と言われたのにも関わらず、ダビデは自分が十分な金額を支払って買いたいと主張しました。オルナンから買わなければ、それはダビデの捧げ物ではなく、オルナンの捧げ物になるからだと言いました。このダビデの姿勢は神への捧げ物に関して私たちに大切なことを伝えていると思います。ダビデは神に捧げ物をすることを特権だと考えていたことは確かです。ダビデは神から何かを得ることよりも、神に捧げることに心を留めていました。無償で捧げる犠牲(いけにえ)はありません。

さよなら、君たち。

先週三日間をかけて教会の屋根裏を含む倉庫の大掃除をしました。こちらに引っ越してきて早17年。古いものが出るわ出るわで初日はどうなることかと思いましたが、新實伝道師と小山牧師、次男と健爾兄という片付け5レンジャーで黙々と作業は進められ、普段は見えない場所ではありますがとてもすっきり、きれいな状態になったと思います。それにしても暑かった!特に屋根裏の収納庫は換気扇が壊れている中でエアコンもなく、人生でこんなに汗をかいたことがかつてあっただろうかと思うほどでした。神様の宮である教会をきれいにするのは大変ではありましたが同時に感謝な時間でもありました。古いものを見つけるたびに、このようなプロセスを経て、主が私たちをここまで運んできてくださったのだということを確認することも出来ました。この教会にも苦しいこと、辛いこと、涙することが多々ありましたがその一つ一つの出来事の中に確かに神様はともにおられて、励まし、なぐさめ、力づけてくださったことを改めて思い返す機会ともなりました。 (小山晶子牧師人)

1歴代誌16:37-18:17

「こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」(18:6)

ダビデは行く先々で勝利を体験しました。聖書は、その理由を、ダビデと共にいた神が彼に勝利を与えられたからだと言います。聖書はこの現実を何度も伝えています。ピリピ人への手紙にもこう記されています。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(4:13)

結局のところ私たちにとって大切なことは、何をするかよりも、いかに生きるかということです。イエス・キリストと共に生きるならば希望があります。ですからイエス・キリストは今日も私たちに語ります。

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)

イエス・キリストと共に歩むことができる人生は、祝福です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1歴代誌 15:1-16:36

「ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、主の名によって民を祝福した。」(16:2)

まず神に礼拝をささげてから、様々な働き、奉仕、ミニストリーがあります。この順序が狂ってしまうときに問題が起きてきます。そもそも、神に礼拝を捧げることなくして、人々を祝福することはできません。

「すべての良いもの、完全なものは、光を造られた神様から来る」(ヤコブ1:17LB)

からです。まず、神の国と神の義を第一に求める中で、私たちは祝福の基となれます。「祝福する」と訳されるギリシア語は、「良い」と「言葉」が組み合わされた単語です。「感謝する」とも訳されます。使徒パウロはクリスチャンの言葉に言及してこんなことを言います。

「みだらな会話や下品な冗談は、あなたがたにふさわしくありません。むしろ、互いに神の恵みを心にとめて、感謝しなさい。」(エペソ5:4LB)

祝福のことばを語る者となりますように。

1歴代誌 12:23-14:17

「私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから。」(13:3)

「神の箱」、それは神の臨在の象徴でもありました。しかしサウルの時代、それはほったらかしにされていました。神はサウルを王として選び、サウル王はイスラエルの国を建国し、権威者となりました。しかし、彼にとって「神の箱」などどうでもよかったのです。彼にとっての神は、その程度の存在だったのです。「あってもなくてもいい」、その程度の信仰だったのです。私たちはどうでしょうか。私たちにとって神に礼拝を捧げることは、どの程度の意味があるでしょうか。礼拝を捧げても、捧げなくてもいい、その程度のものでしょうか?神に礼拝を捧げることを顧みずにきてしまったならば、今、ダビデたちのように心を一新(考え方を新たに)しようではありませんか。まず、神の国と神の義を第一に求めようではありませんか。

1歴代誌 11:1-12:22

「ダビデの勇士のかしらたちは次のとおりである。彼らは、彼とともに全イスラエルに対する彼の王権を強固にし、イスラエルについての主のことばのとおりに、彼を王とした人々である。」(11:10)

イエス・キリストは「ダビデの子」と呼ばれました。ダビデの王権は、神からの王権で、預言者サムエルがダビデに油を注いだ時点で、彼は王でした。しかし、ダビデの勇士たちが彼の王権を強固にし、彼を王としたと言います。イエス・キリストは十字架で私たちのために死なれた時、暗やみの力に対して勝利をとられました。復活というのはその証拠です。イエス・キリストが王であることには変わりはありませんが、私たちはこの地上において、イエス・キリストの王権を強固にしていく使命があります。そのためには、まず、口先だけではなく、自分自身が日々、イエス・キリストを王として生きていく必要があります。