士師記 1:1-2:5

「その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。」(2:10)

出エジプトという神の偉大な救い、解放を知らない世代が起こったと言います。知らないと言っても、親やいろいろな人から、知識としては話を聞いていたと思います。ですから問題は、彼らはそれらの話を単なる昔話、彼らとは直接関係がない物語としてしか聞いていなかったということだと思われます。N・T・ライト師はこう言います。

「『聖書の権威』に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する。その中に、共同体としても、個人としても、自分たちを浸すことである。」

「聖書は、私たちの目の前にある務めを把握させ、その務めに私たちを取りかからせ、それを達成させるためにある。」

主を知らない世代とならないように、聖書をしっかり学び、次世代に教えることができますように。

ヨシュア記 23:1-24:33

「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(15節)

人は自分が選んだ神に仕えます。「神」という言葉で呼ばなくても、自分が選んだ神を主人として仕えます。快楽を自分の神とする人は、人生の基準が、自分に快楽をもたらすものかどうかで判断します。自分の行動基準も、快楽をもたらすものが中心になります。そして自分の快楽を得るために働きます。人は結局、自分が選んだ神を主人として仕えているのです。もっとも、人は誰を神として仕えるかを選ぶことができます。イエス・キリストを自分の神として選び、仕えることもできます。ただ、私たちは自分で決断しなければなりません。主に仕えることを選ぶことができますように。

ヨシュア記 21:20-22:34

「主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。」(21:45)

神はイスラエルの人々との約束を守られました。約束どおり、彼らに約束の地を与え、勝利を与え、安住を与えられました。もちろん、イスラエルの人々もそのために様々な努力や犠牲を払いました。しかし、自分たちの努力によって成し遂げたと記録されていないところに意味があると思います。服部師はこう言っています。

「神の約束のゆえに、苦難や試練を経験したり、そのような苦難や試練の歴史を聞いてきた者にとっては、いつの時代にも、その約束の成就を見ることは感激以外の何ものでもない!」

「すべての良いことは」とあるように、神は真実なお方であり、悪いことではなく、良いことを実現してくださるお方です。

「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

ヨシュア記 19:1-21:19

「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。」(20:2,3)

神は計画的でなく(事故など)、誤って人を殺してしまった場合、復讐を避けて逃げ込むことができる逃れの町を作るように命じました。つまり人間というのは、どんなに気をつけていても、過ちを犯す可能性がある存在であると認められているのです。失敗は終わりではありません。誰もがその可能性をもっています。ですから、過ちを犯した時、私たちはキリストの内に逃れることができます。キリストこそ私たちの逃れの町です。キリストは失敗をしたペテロのところに来て、もう一度チャンスを与えました。キリストは失敗したからと言って、私たちを切り捨てることはありません。