創世記 45:1-47:12

「ヨセフは、パロの命じたとおりに、彼の父と兄弟たちを住ませ、彼らにエジプトの地で最も良い地、ラメセスの地を所有として与えた。」(47:11)

パロがヤコブに「あなたの年は、幾つになりますか。」(8節)

と尋ねられた時、彼はこう返答しました。「

私がたどってきた年月は百三十年です。私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。」(9節・新改訳二〇一七)

ある聖書学者はこれは慣用句的な表現で、彼の本心と言うよりも謙遜にそう返答したのではと言います。しかし、確かに彼の人生はまさに波乱万丈でした。そんなヤコブの老後を待ち受けていたのは、「最も良い地」でした。神は、最終的に「最も良い地」に彼を導いたのです。神は最終的に私たちを必ず最も良い地に導いてくださいます。苦しみ多い人生に思えても、神の導きに従って生きていくならば、最終的には最も良い地に導かれます。

創世記 43:1-44:34

「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」(44:33)

聖書学者の服部師は、この箇所をこう解説しています。

「ヨセフが最終的に確認したかったこと、知りたかったことは、かつて自分を遠くへ売りとばした兄弟たちが、老いた父を中心に仲良く生きているかどうかということであった。すなわち、兄弟愛であった。」「ユダは、弟ベニヤミンを案じ、懇願するようにヨセフに迫って訴え、論じ、結論的には弟ベニヤミンの身代わりになってもよいからベニヤミンを年老いた父ヤコブのもとに帰らせてやってくれるようにとヨセフに求めるのである。」

聖書は言います。

「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ1:5-7)

神の国にはこのような兄弟愛が必要です。

創世記 41:41-42:38

「彼らは互いに言った。『ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。』」(42:21,22)

罪責感は私たちの人生を狂わせます。心理学者によりますと、罪責感は罰を求めて自傷行為など私たちの身体に影響を与えると言います。聖書は罪責感が神との関係を壊して、神の御声を聞けなくさせ、神の臨在を感じなくさせると言います。ヨセフの兄弟たちは二〇年間、罪責感に悩まされ続けました。謝罪できるならば謝罪をし、弁償できることは弁償し、罪を清算し、和解することも大切なことです。いずれにせよ、まず、神に罪を告白することが大切です。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

マントヒヒ

みなとみらいにあるワールドポーターズについ最近イギリス発祥の大きなおもちゃ屋さんがオープンしました。赤が基調となっていて、見ているだけで楽しい新たな万歩計増スポットとなりそうです。お正月明けに歩きに行ったとき、福袋が販売されていることに気付きました。値段も手ごろで、しかもクマのぬいぐるみが必ず2つとtyのぬいぐるみ一つ入っているということで購入してみました!クマの方はとってもかわいかったのですが、tyの方はピンクの目に水色の口、鼻は赤くて首は黄色というなんとも不気味なマントヒヒ、、、。どうしてこういう配色にしたんだろう。正面に向けて飾るととても気持ち悪いのでとりあえず後ろ向きにしています。好みってホントに違うんだな、とこのマントヒヒを見て改めて思いました。これがいいと思って作った人がいるんですよね。自分の感覚や感性だけに固執せず、広い視野で物事を見ることをマントヒヒから教わった一月のある日。そのすべての源である神様の感性の豊かさ、深さは私には想像もできません。   (小山晶子牧師婦人)

創世記 40:1-41:40

「ヨセフはパロに答えて言った。『私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。』」(41:16)

神に用いられる人は神に栄光を帰す人です。神は確かに夢を解き明かす賜物をヨセフに与えました。しかし彼はそれは神の御業であることを理解していたので、自分の栄光にすることはしませんでした。ヨセフは自分ではなく神に栄光を帰したのです。バプテスマのヨハネは、人々が彼の所から離れてイエス様の所にいくのを心配した弟子たちにこう言いました。

「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。」

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:27,30)

彼もまた、「私ではありません。」と、自分にではなく神に栄光を帰しました。

「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ43:7)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

創世記 38:1-39:23

「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」(39:23)

ヨセフは無実の罪で捕えられ、監獄に入れられてしまいます。しかし、聖書は言います。

「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(21節)

神は監獄の長がヨセフに好意をもつようにされたと言います。そして、ヨセフがすることは何をしても成功させてくださったと言います。聖書は明確にその理由を、主が彼と共にいたからだと言います。聖書の神は祝福の神です。人々からの好意を受けることができるようにしてくださるお方です。何をしても成功するようにしてくださるお方です。ヨセフと共におられた主は、今も、イエス・キリストを信じる者と共におられます。することなすこと、みな成功します。イエス様がご一緒ですから。

創世記 36:1-37:36

「見ろ。あの夢見る者がやって来る。さあ、今こそ彼を殺し、どこかの穴に投げ込んで、悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」(37:19,20)

ヨセフは「夢見る者」と呼ばれ、迫害されました。ヨセフが未熟で、配慮なしに語ったことや、父親の偏愛がその原因だったことは否定できません。憎しみにかられた兄たちはヨセフを殺して、夢の実現を阻もうとしました。結局、彼らはヨセフを殺しはしませんでしたが、ミデヤン人の商人に売り飛ばしてしまいました。しかし、ヨセフの夢の実現を阻むものは何もありませんでした。神の夢は時が来れば実現します。夢を阻もうとした兄たちはへりくだらされ、最後にはヨセフはその兄たちに言います。

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。」(50:20)

神に不可能はありません。神の夢を見る者となりますように。

創世記 34:1-35:29

「彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。」(35:18)

ヤコブの妻のラケルは、たいへんな難産だったので、生まれた子をベン・オニ、「私の苦しみ(悲しみ)の子」と呼びました。ところが父親のヤコブは、ベニヤミン、「私の右手の子」と名づけました。新共同訳では「幸いの子」と訳しています。ラケルは「苦しみの子」だと言ったのに、ヤコブは、「それは違う。幸いの子だ。」と言ったのです。私たちはヤコブの信仰に学ぶ必要があります。ヤコブは苦しみは幸いに変わると告白したのです。誰が何と言おうと、私たちも信仰をもって宣言しましょう。「私たちは、神を愛し神のご計画のうちを歩んでいる人のためには、その身に起こることはすべて、神が益としてくださることを知っているのです。」(ローマ8:28LB)

創世記 32:1-33:20

「彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。」(32:31)

ヤコブは神の御言葉を握って、約束の国に戻ってきました。しかし、自分がだました兄のエサウに殺されると恐れていました。ヤボクの渡しのところで、家族を渡した後、ヤコブは自分だけそこに残りました。ヤコブはそこで「ある人」(受肉前のキリストと言われます)と格闘します。ヤコブの自我(エゴ)があまりにも強かったため、「その人」も彼を負かすことができません。それで、ヤコブのもものつがい、すなわち、関節をはずしました。彼は片足を引きずらなければならなくなりました。もう誰からも逃げられなくなってしまったのです。どう見ても負けたのはヤコブの方ですが、神はヤコブが勝ったと言い、彼を祝福しました。神の祝福は、自我が砕かれることによってもたらされます。それが、たとえ足をひきずる人生を意味していたとしても。

創世記 31:1-55

「主はヤコブに仰せられた。『あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。』」(31:3)

神はヤコブに約束の地に戻るようにおっしゃられました。叔父のラバンも、ラバンの息子たちも、ヤコブに対して悪口を言い始めていました。しかし、彼は居心地が悪くなったから帰ることにしたのではなく、神のみことばが来たから帰ることを決断しました。これは大切なことです。神が私たちにみことばを与えない限り、私たちは信仰の冒険に踏み出すべきではありません。しかし神のみことばが与えられたならば、自分の感情ではなく、神のみことばに従って、信仰の冒険に踏み出すべきです。神が私たちを導かれる時、神は必ず私たちが立つことができる聖書のみことばも与えてくださいます。聖書は言います。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)