ヘブル 5:11-6:12

「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」(6:10)

私たちは行いによって救われるわけではありません。キリストがすでに十字架で成し遂げてくださった御業のゆえに救われるだけであり、それに、何も加えることはできません。しかし、それは、私たちの行いがどうでもいいと言う意味ではありません。キリストを信じ救われたのならば、人としてすべき応答があります。エペソ2:10に、こう書いてあります。

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(口語訳)

誰も見て評価してくれなくても、神様は私たちの行いも見ておられ、忘れないと言います。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヘブル 4:14-5:10

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(5:7)

この地上でのイエス・キリストの祈りのスタイルは、

「大きな叫び声と涙とをもって」

ということでした。この祈りのスタイルを、十字架を前にしたゲッセマネの園での時だけに限定して考える必要はありません。もちろん、大きな叫び声を涙がなければ聞き入れられないと言っているわけではありません。しかし、イエス様が残してくださった祈りの模範が全身全霊を傾けるスタイルであったことを私たちは忘れるべきではないと思います。神様が求めているのは美辞麗句ではありません。心からの祈りです。大きな叫び声、涙とをもって、呼び求めるような祈りを、主に捧げてみませんか。

ヘブル 4:1-13

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(4:12)

神のことば、聖書のみことばは生きています。なぜなら、聖書のまことの著者である神は今も生きて働かれているからです。神のことば、聖書のみことばは力があります。なぜなら、聖書のまことの著者である神は、力ある神であり、今も生きて働かれているからです。ですから、聖書のみことばが語られる時、人生が変えられ、世界は変革します。それでライト教授はこう言います。

「聖書を手にするとき、自分にこう言い聞かせる必要がある。いま私は、世界で最も有名な書物を手にしているだけではなく、人生を変え、社会を変え、世界を変え得る偉大な力を持つ書を手にしているのだと。実際、いまもそれは変わらない。」

ヘブル 3:1-19

「「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」(3:13)

私たちは互いに励まし合う必要があります。なぜならこの世界には多くの惑わしがあるからです。初代教会の時代にも、

「不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者」(12節新改訳2017)

がいたことが分かります。聖書が注意するのは頑なになることです。

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。神に逆らった時のように」(15節新改訳2017)

聖書はさらにこう言います。

「こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」(4:1)

神に対する恐れと励まし合うことを忘れることがありませんように。