コロサイ 2:6-23

「かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」(19節)

当時の教会の問題の一つは、

「自分が見た幻により頼み」(18節)

とあるように現象に依存し、キリストとの関係、そして、キリストのからだである教会との関係を軽視する人がいたことです。LBではこう訳しています。

「彼らはキリストにつながっていません。しかし、キリストの体を構成する私たちは、キリストをかしらとして結びついています。私たちは間接と筋肉によって互いにしっかり結び合わされ、神から養分と力とをいただいて成長するのです。」

メッセージ訳ではこう訳しています。

「キリストはかしらで私たちはからだです。私たちは、神様が養ってくださることによってのみ健全に成長できます。」

かしらであるキリストとの関係、キリストのからだである教会との関係の両方が大事です。

コロサイ 1:24-2:5

「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(1:27)

「異邦人の間にあって」と訳された単語は、「全世界で」と理解できます。すなわち神の全世界の救いのための秘密の計画が、王なるイエス・キリストの知らせによって、明るみになったということです。その奥義とは、イエス・キリストを信じる人々のただ中に、すなわち教会に、栄光の主、イエス・キリストが、聖霊によって住んでくださるということです。だからパウロは言います。

「私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けた所を満たしているのです。」(24節新改訳二〇一七)

教会はこの世界の希望です。なぜなら、栄光の望み、キリストがおられるからです。

コロサイ 1:1-23

「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(1:16)

ここには、「御子」、すなわち、イエス・キリストの前に、三つの前置詞が出てきています。「あって」、「よって」、「ために」です。すべてのものは、イエス・キリストに「あって」造られ、キリストに「よって」、そして、キリストの「ために」存在しています。ですから、キリストご自身を求めて生きていかなければ、人は人生の意味を見失います。さらに、聖書は言います。「キリストは、ご自分に属する人々からなる体、すなわち教会のかしらです。」(18節LB)教会もまた、キリストに「あって」造られ、キリストに「よって」、キリストの「ために」存在しています。

ピリピ 4:2-23

「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。」(4:2)

「主にあって一致してください。」

と訳された言葉は、

「主の中で同じ思いを持ちなさい。」

と訳せます。教会の中で、指導的立場にあった二人の姉妹が、仲たがいしていたことが分かります。

「主と同じ思い」

というのは、二章に出てくる内容です。

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(4-8節)

キリストの思いを自らの思い、心構えとすることができますように。

ピリピ 3:1-4:1

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(3:10,11)

苦難を否定的に捉える現代社会では理解しがたい内容ですが、LBではこう訳しています。

「私は今、ほかのことをいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。つまり、真にキリストを知ること、キリストを復活させた力を、この身をもって体験すること、そして、キリストと共に苦しみ、また死ぬとはどういうことかを知ることです。死者の中から復活した、生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。」

「キリストの苦しみにあずかること」

と訳された単語は、

「キリストの苦しみの交わり(コイノニア)」

と訳せます。理解しがたい苦しみはキリストの苦しみの交わりの中にあることであり、それは復活の希望の交わりの中にいることを意味しています。

ピリピ 2:12-30

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(2:13)

原文を直訳しますと、

「というのはあなた方の内に、神が喜ばれることのために、意志と行いの両方に働きかけている方は神である。」

となります。神は私たちの意志と行いとの両方に働きかけておられると言います。神が喜ばれることをしたいという思いも、実際に、神が喜ばれる行いができるように助けてくださるのも神だと言うのです。つまり、私たちは神が喜ばれる生き方を選ぶことができるということです。ですから、パウロは続けて言います。

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」(14節)

つまり、キリストを信じる者は、不平不満の人生ではなく、すべてのことを感謝して生きる力が与えられていると言うのです。