黙示録 12章

「この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。」(2節)

ここに出て来る「女」はイスラエルの国、生まれてくる「男の子」はイエス・キリストを指していると多くの学者は考えています。実際、イスラエルの民族ほど、歴史上何度も滅ぼされそうになりながら存在し続けている民族は他にはありません。
ここで注目すべきことは、「この女」は、産みの苦しみと痛みで終わったわけではなく、5節に、「女は男の子を産んだ。」とあります。つまり、産みの苦しみの先には、「出産日」がくるということです。キリスト教会は、日曜日に礼拝をもっています。その理由は、キリストが死の力を打ち破って復活されたのが日曜日であり、キリスト教会は、今生きておられるイエス・キリストを礼拝するからです。日曜日は、復活の象徴、勝利の象徴です。悲しみが喜びに、嘆きが歌に変わる日は必ず来ます。

黙示録 11章

「それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。」(19節)

「天にある神の神殿が開かれて、契約の箱が見えた」というのは、旧約聖書では考えられない内容です。これは旧約聖書では、年に一回だけ、大祭司だけがいけにえを携えてのみ見ることができた光景でした。契約の箱が意味しているのは、もちろん、神と人との契約、約束です。つまり、「神の約束は永遠に変わらない」ということを意味しています。小さなコインで、私たちはあの大きな太陽を自分の目から隠すことができます。同じように目の前の小さな問題で、神の大きな愛を見えなくすることができます。私たちは自分の目の前のコインをのけて、神の大きさを感じる必要があります。世界は預言された方向へと向かっています。しかし、私たちを愛し、私たちのこの人生にさえも関心をもっておられる永遠に変わらない主は生きておられます。