イザヤ 57章

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(15節)

LBでは後半部分をこう訳しています。

「わたしは謙遜な人を生き返らせ、悔い改めた人に新たな勇気を起こさせる。」

聖書の言う「謙遜」とは自己卑下することとは違います。自分をかわいそうに思うことではありません。自分は神が必要な存在であると認め、神と共に生きることです。自分は有限な被造物であり、いと高き、永遠の住まいに住む、無限な創造者ではないと認めることです。神を神として認めることです。自分中心(自己実現)の人生から神中心(神実現)の人生に方向転換(悔い改め)する時に、神は私たちに新たな勇気を起こされます。

イザヤ 56章

「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(7節)

聖書の神はすべての人の神です。神は言われます。

「わたしの祝福は、神を信じる外国人にも及ぶ。彼らに、『主は私たちを劣った者とする』と考えさせてはならない。」(3節LB)

神の目には人種差別はありません。

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」

は6節にあるように神を信じる外国人に約束したものです。この文脈を心に留めてイエス様がこの箇所を宮きよめの箇所で用いたことを理解する必要があります。イエス様が「強盗の巣」(マルコ11:17)と呼んだのは、当時の宗教指導者たちが外国人の祈りの場を盗んでいたからです。

教会は、すべての民の祈りの家です。

イザヤ 55章

「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」(3節)

神は私たちを招いておられる神です。LBではこう訳しています。

「わたしのところへ来て、耳を傾けてよく聞くのだ。あなたがたは立つか倒れるのかの瀬戸際なのだ。わたしはあなたがたと永遠の契約を結び、ダビデ王を愛したように、今も変わらず、あなたがたを愛したい。」

神は私たちを用いてこの世界にご自身の栄光を現わそうとされています。しかし、そのためには、主のところへ来て、耳を傾けて、よく聞く必要があると言います。使徒パウロもこのように言っています。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)

生きた信仰生活は、日々、神の御言葉に耳を傾けることから始まります。

イザヤ 54章

「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。―主の御告げ。―」」(17節)

LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「しかし、やがて来る日には、あなたに向けられたどんな武器も役に立たなくなり、法廷でどんな偽証が並べ立てられても、あなたは正しいと認められるようになる。これが、主のしもべの特権、わたしからの祝福である。こう主は語ります。」

まさに、これが聖書の言う「義認」です。イエス・キリストを信じる者に与えられた特権です。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)