箴言 7章

「私の命令を守って、生きよ。私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。」(2節)

わたしたちは瞳を大切に扱います。目は、私たちが生きていくうえで大事な器官ということ以上にとてもデリケートな部分だからです。目に虫や小さな砂が入ってしまうだけでも体全体、時には精神的にも影響を与えます。目に対してこれほどの神経を使っているように、神の御言葉に対して私たちは神経を使って耳を傾けているでしょうか?御言葉が悪魔に持ち去られないようにとしっかりと守っているでしょうか。どのようにして私たちは神の教えをまもることができるのでしょうか。それは、『それほど大切なものである』ということを日々意識するということだと思います。御言葉をぞんざいに扱うのではなく大切にしましょう。

「それが生きる秘訣です。私のことばを宝物のように大事にしなさい。」(LB)

箴言 6章

「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。」(16節)

この箇所には、神様の憎む行いが具体的に記されています。それをLBではこのように訳しています。

「神の嫌いなものが六つ、いいえ七つあります。高慢な態度、うそをつくこと、人殺し、悪だくみ、悪事に熱中すること、偽証、仲たがいの種をまくことです。」

意識してこれらのことを行っているならば明らかに問題です。しかし、残念ながら私たち人間は無意識のうちにもこれらのことを行っていることに心を留める必要があります。自分は正しいことを行っている、自分は正しいと思っているならば、そういう人はもしかするともっとも神が『忌み嫌っている』ことを行ってしまっているかもしれません。自分は正しいと思っている時こそ、もっとも気をつける必要がある時だからです。そんな時、自分の不完全さや足りなさを忘れ、高慢な態度になっているかもしれません。

箴言 5章

「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかしその終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。」(3‐4節)

「他国の女」とありますが、LBでは「悪い女」と訳しています。誘惑はまさに、サタンが人間を滅びへといざなう常とう手段ということです。まるで良いものであるかのように私たちを誘惑しながら、最後は永遠の滅びへと落とすのです。どのようにして、わたしたちはこのサタンの罠を見分けることができるのでしょうか。エペソ人への手紙の中に素晴らしいガイドラインが記されています。
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。私たちの格闘は・・・主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。・・神のすべての武具をとりなさい。」(6章)

箴言 4章

「父は私を教えて言った。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。」(4節)

子供というのは、親が命令するのは、自分の楽しみを奪うためだと思いやすい傾向があると思います。しかし、実際は、親は子の人生を思うがゆえに、いろいろとしつけるのです。神の命令も同じです。「私の命令を守って、生きよ」とあるように、私たちが生き生きと生きることが出来るように、神は私たちに命令を与えられます。神の命令は、私たちを縛るのではなく、私たちを自由にしてくれるのです。スポーツは、ルールを守ってしなければ、楽しむことはできません。サッカーをしているのに、急にラグビーのようにボールをもって走り出す子がいたら、全然楽しくなくなってしまいます。同じように、神の命令は、私たちが人生をより楽しむためにあるのです。「よく聞きなさい。私のことばと教えを大切にすれば、一生幸せに暮らせる。」(LB)

箴言 3章

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(5,6節)

私たち人間の一番の問題は、自分の悟りに頼ってしまうことです。人生を生きていく中で積み上げてきた悟りを、何世紀にも渡って神のみことばとして様々な文化圏の人にも語り続けている神の御言葉よりも優先してしまうのです。私たちは謙遜になって、主を認める必要があります。自分の歩む道すべてに、主を認める必要があります。自分の知恵を過信せず、主を歓迎し、主の導きを日々求めること、これは、私たちの人生の生命線となります。

「決して自分に頼ってはいけません。何をするにも、主を第一にしなさい。主がどうすればよいか教えてくださり、それを成功させてくださいます。」(LB)

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

箴言 2章

「正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。」(21節)

リビングバイブルでは今日の箇所をこのように訳しています。

「人生を思う存分楽しめるのは正しい人だけです。」

神との関係が正しくない時、わたしたちはそれ以外のすべてが物質的にも精神的にもたとえ満たされていても、心のどこかに隙間を感じていると思います。イスラエル人はあいさつに「シャローム」という言葉を使いますが、この言葉には

『神様とあなたのシャローム(関係)は今日いかがですか?』

という意味があるそうです。

『今日、あなたと神様との「シャローム」はいかがですか?』

もし、告白していない罪があるならば、いま神に告白し、赦しをいただいてもう一度神様との正しい関係に入れていただきましょう。もし、赦せない思いを抱えているなら、その人を赦す決心を祈りをもって告白し、神との正しい関係に戻ることができますように。

箴言 1章

「知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、」(20節)

メッセージ訳では7節をこのように訳しています。

「神からはじめましょう。学ぶことの第一ステップは、神にひざまずくことです。」

ユージーン・ピーターソンという神学者はこんなことを言っています。

「箴言は、人生のあらゆる詳細が永遠の重要性があるという聖書の声明です。」

聖書の神は、私たちの宗教的側面しか関心がないというお方ではありません。私たちの日々の生活も、重要なものとして関心をいだいておられます。家族生活を、信仰生活と同じ真剣さで聖書は扱います。ですから、聖書は信仰面だけではなく、生活面においても私たちの規範となります。LBでは、「知恵は町の中で叫んでいます」と訳していますが、聖書は生活の現場に関わるものです。

「では、どうしたら賢くなれるのでしょう。まず主を信じ、主を大切にすることです。愚かな人は主の教えをさげすみます。」(7,8節LB)

1テサロニケ 5章

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(16-18節)

「神が望んでいる」と訳された単語は、「神のみこころ」と訳すことができます。神の私たちに対するみこころは、私たちがいつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝することだと聖書は言います。神は、私たちが、どんな状況でも神を信頼して喜ぶことを願われておられます。もちろん、そのためには、絶えず祈る必要があると言います。「それでもなお祈る」という祈りを止めないということです。信じて祈り続けることこそ、神のみこころであるということです。そして、必ず神がすべてのことをプラスにしてくださると信じて、プラスに見えることだけでなく、マイナスに見えることも、すべてのことについて感謝することです。「ハレルヤ、主よ、感謝します。」と感謝することが神のみこころです。

1テサロニケ 4章

「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。」(3-6節)

神の私たちに対するみこころは、聖くなることだと聖書は言います。この箇所では、自分のからだを聖く保つことを教えています。私たちは自分の心を汚れた思いや欲情のとりこにさせられないように、何を見、何を聞くか、注意をする必要があります。また、「兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。」とあるように、自分の聖さばかり考えて、周りの人を踏みつけないように気をつける必要があります。