2列王記 6章

「そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。』主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」(17節)

アラムの軍勢がエリシャの町を包囲しているのを見て、彼のしもべは恐れに縛られていました。それで、エリシャが彼の目が開かれるように祈ると、アラムの軍勢を天の軍勢が取り囲んでいるのが見えました。日常生活の中であまり意識しないかもしれませんが、霊の次元というものがあります。私たちは物質的な次元しか見ていないので、すぐ落胆し、行き詰まりを感じてしまいます。物質的な次元では、私たちの敵はあまりにも強大に見えてしまいます。しかし、エリシャは言いました。

「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」(16節)

2列王記 5章

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」(14節)

ナアマン将軍は、ツァラアトに冒されていました。(「ツァラアト」は、二版では「らい病」と訳していましたが、「ハンセン氏病」など、特定の病名と結び付けられないことから三版でヘブル語表記となりました。)彼は自分の病気をいやしてもらうためにわざわざエリシャのもとに来たのに、エリシャが出て来てあいさつもせず、ただヨルダン川に七たび身を浸すように言ったことに腹を立てました。しかし、部下の進言に耳を傾け、エリシャが言ったとおりに実行しました。その時、いやしを体験しました。どんなに納得できなくても、「神の人の言ったとおりに」、現代の私たちに適用するなら、聖書のみことばとおりにという姿勢が、人生に奇跡をもたらします。

2列王記 4章

「器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。」(6節)

エリシャが言うように、からの器を集めて、その器に油をつぐと、油は尽きることなく次々にその器をいっぱいにしました。しかし、器がなくなると、油は止まりました。アルゼンチンのリバイバリスト、アナコンディア師は、

「空の器を捜して歩き、愛の油を注ぎ続けよう」

と言いました。

「愛の油を注ぎ続ける限り、油注ぎは止まることはありません」

と。私たちは愛の油を求めます。しかし、現実は、「これっぽち」と思っても、空っぽの人々に注ぎ続けることによって、愛の油が止まらないことを体験します。私たちが注ぐ愛は、自分の愛ではなく、神の愛だからです。ですから、愛の油が止まったと感じるのは、注ぐ器を見失っているからかもしれません。

2列王記 3章

「しかし、今、立琴をひく者をここに連れて来てください。」立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、」(15節)

エリシャはイスラエル、ユダ、エドムの求めに応じて神様からの預言をするために、立琴をひく者を呼んで、立て琴をひき鳴らす中で主の手がエリシャの上に下り、語りはじめました。聖書を見ますと音楽と神の油注ぎが切り離すことができない関係にあることを見ます。ですから教会において、礼拝音楽はとても重要な位置にあります。賛美の中で私たちの心は神のことばを聞く心に整えられ、私たちの人生の中における聖霊様の働きに心の扉を開くことができるからです。聖書にこう書いてあります。

「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(エペソ5:18,19)

2列王記 2章

「渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。」(9節)

預言者エリヤがエリシャに、何でも「求めなさい」と言いました。もし、自分がエリシャの立場だったら、何を求めるでしょうか?この世の一時的な楽しみを求めるでしょうか?エリシャが求めたのは

「エリヤのいのちが、自分の人生に繰り返されること」(メッセージ訳)

でした。エリシャは、エリヤのような人生を歩みたかったのです。それはエリヤがそうであったように、自分も聖霊の力で満たされて生きたいという祈りだったと思います。旧約聖書の時代、聖霊は限定的な人にしか注がれませんでした。しかし、ペンテコステの日以来、聖霊はキリストを信じるすべての人に注がれます。

2列王記 1章

「そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリヤの王の使者たちに会い、彼らに言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。」(3節)

「バアル・ゼブブ」は「ハエの主」という意味で、ハエによって疫病が運ばれるので、災いをもたらす悪神として恐れられていたと言われます。新約では「ベルゼブル」「ベルゼブブ」と呼ばれ、悪魔的要素を持つものとして提示されています。イスラエルの王は、まことの神を拒絶した結果、そのような悪魔的要素をもつペリシテ人の悪神に助けを求めたと言うのです。イエス様は言われました。

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)

悪魔に助けを求めても騙され滅ぼされるだけです。

今日は主の日。主を求めましょう。

1列王記 22章

「すると、ケナアナの子ゼデキヤが近寄って来て、ミカヤの頬をなぐりつけて言った。『どのようにして、主の霊が私を離れて行き、おまえに語ったというのか。』」(24節)

預言者を自負していたゼデキヤが、ミカヤの頬をなぐりつけたというところに、主の霊がすでに彼を離れていたことが分かります。なぜなら聖霊の実は

「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)

しかも新約聖書にはこんな箇所もあります。

「しかし、神からの知恵は純粋であり、平和とおだやかなやさしさに満ち、思いやりと良い実に満ちています。」(ヤコブ3:17LB)

「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(Ⅰコリント13:2新共同訳)

「神のしもべは争いません。」(Ⅱテモテ2:24)

ユージーン・ピーターソン師は、こんなことを言っています。

「反対者を殺すことは野獣の問題解決方法。私たちの方法はではない。私たちの方法は忍耐と信仰。」

1列王記 21章

「アハブは不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家にはいった。イズレエル人ナボテが彼に、「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲れません。」と言ったからである。彼は寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとはしなかった。」(4節)

アハブ王は自分の思い通りに欲しいものが手に入らなかったため、子どものように不機嫌になりました。貪りは人を、満足ができない惨めな存在にし、とんでもない悪に導きます。サタンの嘘は、

「もし、これがあれば、あなたは幸せになれる」

というものです。しかし神との関係以外に私たちを満足させるものはありません。使徒パウロは言いました。

「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」(ピリピ4:11)

「学びました」ということは、あのパウロでさえも、以前にそれを知らなかったということでもあります。スポルジョン師はこう言います。

「兄弟よ。あなたがつぶやくのは無理もないが、つぶやきをやめて満ち足りることを学ぶ大学の勤勉な学生であれ。」

1列王記 20章

「主はこう仰せられる。『あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。』」アハブが、「それはだれによってでしょうか。」と尋ねると、その預言者は言った。「主はこう仰せられる。『諸国の首長に属する若い者たちによって。』」アハブが、「だれが戦いをしかけるのでしょうか。」と尋ねると、「あなただ。」と答えた。」(13,14節)

アハブはどうしようもない悪い王でした。しかし、神は、イスラエルの人々を救うためにアハブを用いると言われたのです。神の恵みの世界は私たちの理解をはるかに超えています。ふさわしくないアハブにもう一度チャンスを与えて、主こそ神であることを知らせるというのです。もしかしたらアハブは自分なんかを神は用いないと思って「だれが?」と尋ねたのかもしれません。しかし主は「あなただ。」と言われました。

1列王記 19章

「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。」(11,12節)

神は激しい大風の中など、ドラマティックな超自然的な現象の中におられると思います。しかし、「かすかな細い声」、「静かにささやく声」(新共同訳)で、神はエリヤに語られました。激しい大風や火の中で語られることを期待するがゆえに、聞くことができないということはないでしょうか。静まって、神の御声に耳を傾ける時間は大切です。超自然的に神が語られることを期待するよりも、静かに聖書を開き、今も、「静かにささやく声」で語りかける神の御言葉に心を向けましょう。