レビ記 21章

「彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。彼らは、主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。」(6節)

ここでは儀式的な清さについて言及しています。ボウカムという学者がこのような解説をしています。

「穢れとは、人々がさまざまなものと接触して身に受けてしまう、ある種の目に見えない汚染のようなものと考えるのがもっとも妥当だろう。私たちの目には奇妙に映るかもしれないが、伝統的な人々の多くは儀式的な清さという考えをもっている。・・・神が神殿に宿っているとは、そこに清浄な空間が生み出されているということであり、その聖域に穢れた状態の人間が入ってしまうとその清浄さが損なわれてしまうということだったのだ。」

イエスの十字架はすべての穢れから私たちを清めます。

レビ記 20章

「あなたはイスラエル人に言わなければならない。イスラエル人、またはイスラエルにいる在留異国人のうちで、自分の子どもをモレクに与える者は、だれでも必ず殺さなければならない。この国の人々は彼を石で打ち殺さなければならない。」(2節)

この章には、死刑に値する道徳的行為に関して記されています。「自分の子どもをモレクに与える」というのは、当時、カナンの地で行われていた赤ん坊をカナンのカミにいけにえとして殺して捧げるという行為のことです。もし、そのような事が許されてしまうのならば、イスラエルの社会はもっと混乱していたことでしょう。それから霊媒など、オカルトに関しての言及もあります。これらは皆、人を破滅に追いやるものです。神はイスラエルの国を守るために、これらのものから引き離す必要がありました。どんなに力があるように見えても、これらの類は避ける必要があります。

レビ記 19章

「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(18節)

律法学者の

「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(マルコ12:28)

という質問に対して、イエス様は、まず、申命記6:5

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

を引用し、その次に今日の箇所、

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」

を引用します。何があっても、この二つの命令を大切にすることが、キリスト教会の根幹だと言われたのです。

教会はまず、神を愛するために存在しています。

礼拝、賛美、祈りは、教会の最優先事項です。

そして、教会は互いに愛し合うために存在しています。

共にキリストのからだである教会をこの地に建てあげることを神は願われています。

最後に教会はこの世を愛するために存在しています。

神は世を愛し、ひとり子を与えられました。

レビ記 17章

「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(11節)

この箇所は輸血を問題にしている箇所ではありません。いのちを贖うためには血でなければならないということを明確にしている箇所です。ペテロの手紙第一にこうあります。

「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1:18,19)

キリストがどうして十字架の上で、その血を流さなければならなかったかが、この箇所で明確になります。それは、私たちを贖うためには血でなければならなかったからです。
「イエス様、私たちのために尊い血潮を流してくださったことを感謝します。」

レビ記 16章

「主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。」(2節)

聖なる神が現れる時、罪ある人はその前で死んでしまいます。ですから大祭司であっても、自分のためにいけにえを捧げて、様々な規定にしたがって、聖所に入る必要がありました。しかし、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださった時、

「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」(マルコ15:38)

とあります。今、イエスの十字架の御業のゆえに聖書は言います。

「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)

今日は主の日。イエス様の十字架の御業を感謝しつつ、礼拝を捧げましょう。