マルコ 4章

「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。」(27節)

今日の箇所を直訳しますとこうなります。

「寝て、起きて、夜で、朝で、種は芽を出し、成長する、どのようにしてかは、彼は分からない。」

ユダヤ人の一日は、日没から始まります。ですから、起きる前に、寝ます。朝の前に、夜なのです。朝の前に、夜が来るように、誰の人生にも、マイナスに見える出来事は、必ず、起こります。しかし、それは、悲劇の始まりではなく、神の御業の始まりです。マイナスは必ずプラスになります。どのように成長するかは、分かりません。どのようにプラスになるかは、分かりません。しかし、神は、すべてのことを働かせて益として下さるお方です。イエス様は、ご自身のガリラヤでの働きを

「小さな始まりだとさげすんではならない」

と警告しました。

私たちは神の働きを過小評価してはいけません。

マルコ 3章

「このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている。」と言っていたからである。」(30節)

織田昭という牧師がこう言ってます。

「イエスを目の前にして、『悪魔だ』という激しい拒否反応を示した。これはしかし、神の救いの手を見た時の、罪の中に居座りたい者の必死の逆襲なのです。このまま自分の主権と主体性を守りたい。このままでいい。その時、神の霊は悪魔に見える。無気味なベルゼブルの手に見えるのです。『私に触るな。このまま、そっとしておいてくれ』と。」

本当の問題はイエス様の言葉とその御業の中に

「何を見るか?」

ということです。この箇所が私たちに伝えていることは、イエス・キリストは「まあまあいい人」ということにはならないということです。「神の御国」をもたらした方か、危険な気が狂った人かのどちらかでしかありません。私たちは、自分の生き方を変えたくないと、遠ざかるか、神のあわれみに応答して、ひざまずくかです。

マルコ 2章

「それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。」(2節)

注目していただきたいことは、イエス様が集まってきた人たちに何をしていたかということです。

「イエス様の家に行ったら、みことばを話していた」

・・・これが、自然なことだったのです。聖書は、誤りなき神のことばです。ですから、

「イエス・キリストの家でもある、キリストの教会に行ってみたら、聖書のみことばが語られていた」

というのが、あるべき姿です。教会の頭であり、私たちのただ中におられるイエス・キリストは、今も、この聖書のみことばを通して、私たちに語り、教え、導いてくださっています。ですから、使徒パウロは言いました。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ 10:17)

マルコ 1章

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(15節)
「悔い改めて福音を信じなさい」

とクリスチャンが言う時、それは大体、

「罪をやめて、クリスチャンになりなさい」

という意味です。

もちろん、神は、私たちが罪を犯し続けることを願われていません。私たちは、悪いと分かっていることを止めて、立ち返る必要があります。しかし、今日の箇所で、イエス様が言われた「悔い改めて福音を信じなさい」という意味は、他にも意味があります。

それは、まず、第一に、

イスラエルの国を崩壊させる戦争へと掻き立てていた社会的、政治的流れから、方向を転換することでした。

第二に、これは、

ヤハウェなる神への真の忠誠に立ち返ることへの呼びかけでもありました。

イエス様は、自分が握り締めていたものを、手放して、イエス様を、イエス様のメッセージを信頼することを求めました。

世界観の転換を求めたのです。

 

出エジプト 40章

「モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」(35節)

「とどまり」と訳された言葉は、ヘブル語の「シェキナ」と呼ばれる、「神の栄光」「神の臨在」を現す言葉と同じ語源の言葉が用いられています。イスラエルの民の中心には、神の臨在がありました。それが、イスラエルの民を特別なものとしました。今、キリスト教会の中心には、同じように「神の臨在」、聖霊がおられます。聖霊こそ、キリスト教会を特別なものとしているものです。ですからパウロは言いました。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

今日は主の日です。共に主の宮に集い、主の臨在の民として、聖霊の民として、主に礼拝を捧げましょう。

出エジプト 39章

「イスラエル人は、すべて、主がモーセに命じられたとおりに、そのすべての奉仕を行なった。」(42節)

私たちは、どうしても自分のやり方でしたいという気持ちがあります。しかし聖書は、神が命じられているように従順して行うことの大切さを語っています。指導者に盲目的に従順するという意味ではなく、具体的に神が命じられていることは聖書の中に記されていますから、聖書のみことばに従順するということです。これは、信仰生活で大切な部分でもあります。自分のやり方を通すか、神のやり方に従順するか、それは、自分が神になるか、神が神になるか、自分が主導権を握るか、神が主導権を握るか、信仰生活の根本的な問題でもあります。神が命じられた通り、私たちは祈り、賛美し、教会に集い礼拝します。これこそ、神を神とする私たちの根本的な信仰姿勢につながるものでもあります。

出エジプト 38章

「これを用いて、彼は会見の天幕の入口の台座、青銅の祭壇と、それにつく青銅の格子、および、祭壇のすべての用具を作った。」(30節)

幕屋の中で使う器具のもとになったのは、人々が喜んで捧げたものでした。神は喜んで捧げる物を聖めて、主の栄光のために用いてくださるお方です。神ですから、自分の聖所で使うものは特別に天から降らせることも、超自然的に造ることもできたはずです。しかし、一人一人が精一杯、神のために捧げたものを用いられました。神は私たちのそのような心を求められているからだと思います。ですから、教会の一般的な必要は、教会に集う一人一人が喜んで捧げるささげ物を、神は聖めてもちいられます。「達人の手」という詩があります。オークションで安くたたき売られていた古いバイオリンを達人が奏でた時、その値は何十倍、何百倍にもなったという内容です。達人であるイエス様が私を奏でてくださるならば、素晴らしい音が出ます。

出エジプト 37章

「ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で「贖いのふた」をおおい、ケルビムは互いに向かい合い、その顔は「贖いのふた」に向いていた。」(9節)

ケルビム(複数形)は、神の臨在を示す天使たちの名前の一つです。聖書の中では手、足、翼をもつ存在として表現されます。贖いのふたは、十戒が納められていた契約の箱につけられました。ケルビムが最初に登場するのはアダムとエバが追放された時です。

「こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」

神の臨在のあったエデンの園への道には、ケルビムがいました。それでケルビムが神の臨在を示す存在として認識されるようになりました。このような賛美があります。

「我がもとで安きを得よ、ケルビムの翼のもとで。

汝がために現そう、ケルビムの翼のもとで」

出エジプト 36章

「モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。」(2節)

神のために奉仕することは、強制されてするものではなく、イエス様の御業に感動して、救われたことに感動して、自発的に行われるものです。神のためにやってあげる、教会のために仕方なくやっているというレベルの話ではなくて、神に仕えさせていただくという姿勢をもってすることが大事です。そして、主が授けてくださった賜物を用います。ある神学者は、自分が神に対する献身的な思いが薄れているように感じる時は、キリストの十字架を黙想するそうです。そして自分の心にこう言い聞かせるそうです。

「これらはみな、私のためにしてくださった」と。「イエス様、あなたの十字架を覚え、あなたの愛に迫られ生きていけますように。」

出エジプト 35章

「モーセはイスラエル人の全会衆に告げて言った。「これは、主が命じて仰せられたことである。あなたがたの中から主への奉納物を受け取りなさい。すべて、心から進んでささげる者に、主への奉納物を持って来させなさい。」(4,5節)

モーセは聖所を造るために経済的な必要があることは分かっていました。しかし、各家庭に義務を分担するのではなく、それぞれが自由意志で神様に捧げるようにと言う神様の命令を語りました。モーセは、もしかしたら、それで経済的な必要が満たされるか不安だったかもしれません。しかし、結果は、

「感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。」(21節)

「感動して、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。」(26節)

経済的だけでなく労力まで満たされました。神の愛への自発的な応答が求められてます。