エレミヤ 21章

「あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。」(8節)

神様は私たちに選ぶ自由を与えています。この自由意志が両刃の剣で、この世に良いことも悪いことも起こる原因になります。しかし、自由意志がなければロボットと同じになってしまい、そこに愛の関係というものは生じません。いのちの道であるイエス・キリストを信じることを選ぶことに意味があります。キリストのからだであり、キリストの花嫁である教会につながることを選ぶことに意味があります。神のみことばである聖書を、自分の信仰と生活の規範とすることを選ぶことに意味があります。誰一人、イエス・キリストを自分の救い主として信じることを選ぶことなしに、クリスチャンになることはありません。神様はすべての人に選択を与えてます。

エレミヤ 20章

「しかし、主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことはできません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。」(11節)
 
10節でエレミヤは言います。

「四方八方から脅し声が聞こえるので、私はおじ気づきます。」(LB)

エレミヤは、人々の笑い者になり、ばかにされ、脅され、

「もう辞めたい」

と思いました。しかし、そのような中で、エレミヤは主に目を向けることによって確信を得ます。

「しかし神様は、大勇士として私の側に立っています。」(LB)

この視点の転換こそが失望を確信に変える秘訣です。エレミヤは神様が側に立っておられることに気づいたのです。使徒パウロも似たような表現を用いています。

「神様が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)

今日は主の日です。主に礼拝を捧げることを通して視点の転換をすることができますように。

エレミヤ 19章

「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはこの町と、すべての町々に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじのこわい者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。』」(15節)

当時の人々の問題は、強情を張り、神様のことばを聞こうとしなかったことでした。しかし、人間の本質は昔も今も変わることなく、今も強情を張って、神様のことばに耳を傾けようとしないという問題があります。信仰は聞くことから始まりますから、聖書のみことばに耳を傾けないことには何も始まりません。自分の思い、自分の考えを優先させ、聖書の権威を認めることができなければ、当時のイスラエルの人と同じ過ちを繰り返してしまうことになります。心をやわらかくして、聖書の権威を受け入れ、神のみことばに耳を傾けることができますように。

エレミヤ 18章

 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。―主の御告げ。―見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」(6節)

 「この陶器師のように」とありますが、前半部分にこう記されています。

「『さあ、陶器を作っている家に行け。そこで、おまえに話そう。』言われたとおりにすると、陶器師はろくろを回している最中でした。ところが、彼は手がけていたつぼが気に入らなかったので、それをつぶして粘土のかたまりにし、初めからやり直しました。」(2-4節LB)

この時、神様がエレミヤに語られました。神様はこの陶器師のような方であり、私たちはまさに神の手の中にある粘土のような存在です。これはまさに、絶対的な神の主権を現しています。この絶対的な神の主権を認めることは大切なことです。

エレミヤ 17章

「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」(10節)

 LBではこう訳しています。

「ただわたしだけが人の心を知っていて、すみずみまで探り、いちばん奥に隠された動機まで調べ上げる。そして、一人一人にそれぞれの生き方に応じた報いを与える。」

神様は私たちの心、私たちの動機の部分まで見ておられると聖書は言います。このことをよく現しているのがヨブ記でもあります。ヨブ記は、どうして私たちがこの地で正しく生きようとするのか、その動機は何か?ということがテーマになっています。ご利益があるから正しく生きようとするのか?もし、そうならば、ご利益を失ったら、正しく生きることをやめてしまうのか?神様は、まさに、私たちの動機の部分を見ておられると言います。結局のところ私たちの動機は、私たちの生き方にも反映します。

なぜ、正しく生きようとするのか?

あなたの動機は何でしょうか?

エレミヤ 16章

「人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない。」と。」(20節)

 LBではこう訳しています。

「神を作ることが人間にできるでしょうか。人間の作る神々は本物の神ではありません。」

人間が作る神々は、聖書的には神ではありません。聖書に出てくる神の名は「YHWH」で、それは英語の「BE動詞」にあたり、存在を意味します。つまり、自立自存の神という意味があります。ですから、何か原因があって存在したものは、聖書の定義では神とは呼べないのです。人間が作り出したものは、神とは呼べません。しかし、いつの時代も人間は神々を作ろうとします。自分に都合のよい神々を作り出そうとするのです。しかし、聖書ははっきりと、

「そんなものは神ではない」

と言います。

私たちは、自分の理想の神々を考え出すのではなく、神の言葉である聖書からまことの神を学ぶ必要があります。

エレミヤ 14章

「異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。」(22節)

メッセージという訳では、最後の部分をこう訳しています。

「あなたはそのすべてを造られた。そのすべてをなされた。」

聖書の神は、天地万物を造られた神です。ここに希望があります。LBではこう訳しています。

「どこの国の神が、私たちのために雨を降らせるでしょう。私たちの神様以外に、このようなことのできる神はいません。ですから私たちは、神様が助けてくださるのを待っているのです。」

天地万物を造られただけではなく、私たちを助けてくださる神様だと預言者は言います。私たちに関心をもち、私たちの祈りに耳を傾けられるお方だというのです。ですから、私たちは祈りつつ、主を待つ姿勢が求められます。

エレミヤ 13章

  「耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。」(15節)

メッセージという訳ではこう訳しています。

「聞きなさい。注意深く聞きなさい。あなたのやり方に固執してはいけない。ここでは、神のメッセージを取り扱っているのだから。」

自分の考え、自分のやり方に固執しすぎますと、神のみことばを聞くことができなくなってしまいます。自分の哲学が神のみこころを理解しようとする思いを邪魔するのです。そもそも自分の考え、自分のやり方の方が、神の考えよりも優れていると考えること自体、思い上がっているということを示すのだと思います。私たちは、聖書を信仰と生活の規範とするという福音主義を大事にしています。神がお語りになられたことを、素直に聞くことを大事にしています。神のみことばである聖書のみことばに耳をふさぐならば、そこには、「視界ゼロの暗闇」(LB)が待っています。神のみ言葉だけが私たちの足の灯火、私たちの道の光だからです。

※ 本日のSSCの第二礼拝はリラの特別賛美と塚田献先生のメッセージ。第三礼拝はお休みです。

本日午後、リラの二〇周年記念コンサートが東京で開催されます。