雅歌 1章

「あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。」(3節)

 雅歌は「歌の中の歌」とも呼ばれますが、夫婦の愛の詩です。聖書は結婚という文脈の中において、夫婦がお互い求め合うことを大切にしています。しかし、それはまた同時に、エペソ5章にあるようにキリストと教会との関係として解釈することも大切です。
今日の箇所を新共同訳ではこう訳しています。

「あなたの香油、流れるその香油のように、あなたの名はかぐわしい。」

クリスチャンにとって、イエス・キリストの名前はかぐわしい名前です。「イエス様」とイエス様の名前を口にするだけで、幸せな気持ちになります。イエス・キリストとの人格的な関係があるならば、「イエス様」という名前は特別な名前だからです。

「愛するイエス様、あなたの名前を呼ぶことができる恵みを感謝します。」

コロサイ 4章

「同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」(3,4節)

 奥義とは、2:2にこうあります。「キリストご自身にほかならないからです。」(LB)キリスト教とは宗教ではなく、キリストとの関係です。問題は、このキリストとの関係という奥義をはっきりと語るということです。なぜならば、いつの時代も、キリストとの関係を築き上げることを妨げようとする攻撃が存在するからです。ある牧師はこう言っています。「世の中は買い手志向だが、キリスト教会だけは売り手志向。世が求めているものは何かを知るだけでなく、福音がそれを満たすことができるという姿勢が必要。」キリストが、私たちのすべての必要に唯一答えることができるという信仰が大事です。

コロサイ 3章

「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(12,13節)

 聖書は、この世で私たちが身につけるものがあると言います。もちろん、神様はありのままの私たちを受け入れてくださったのですが、だからと言って開き直ってしまうのは、聖書が教えている生き方ではありません。具体的に私たちが身につける必要があるのは、不満があっても、互いに忍び合い、赦しあうということです。イエス様がどんなに忍耐され、どんなに赦されておられるかを考える時、私たちもまた、互いに忍耐して、赦し合うという姿勢を身につけていくことが、神様が望んでおられることです。「主よ、私たちにあなたの心を与えてください。」

伝道者 12章

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(13節)

LBではこう訳しています。

「これが私の最終的な結論です。神様を敬い、その命令に従いなさい。これこそ人間の本分だからです。」

つまり、この伝道者の書を通して、ソロモンはこう伝えたかったのです。

「私はすべてをやってみて、人生の答えは、快楽の追求でもなければ、権力の追求でもなく、ましてや、所有物の追求でもなければ、知識の追求でもないことが分かりました。人生の意味は、神への畏れの中にあるのです。」

伝道者の書のキーワードは「日の下」でしたが、それは、神様を抜きに考えるとすべては「空の空」であるということでした。ですから、神を認めて生きることが人生に意味を与え、豊かな人生を歩めると言うことが結論です。今日は主の日。王の王、主の主なる神を礼拝しましょう!