詩篇 90篇

「あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください」(15節)

 私たちはまず、私たちの神は楽しませてくださる神であることを知る必要があると思います。聖書は言います。

「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17)

私たちの神はまた、回復の神でもあります。

「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。」(ヨエル2:25)

私たちの人生に回復を与え、楽しませてくださる神はこうおっしゃられています。

「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。主が思い直して、あわれみ、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう。」(ヨエル2:13,14)

詩篇 89篇

「ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。」(52節)

 この詩は、イスラエルの民がバビロンに捕囚されていた時に書かれました。イスラエルの人々の悩みの一つは、ダビデの王座は永遠だと神様が約束してくださったはずなのに、ダビデの子孫が今、王座にいないということでした。詩人は、やがてダビデの子孫としてイエス・キリストが永遠の王座につかれるということを理解することはできませんでした。しかし、詩人は理解できないことのゆえに、知っていることを犠牲にすることはしませんでした。この詩の最初と最後は信仰からにじみ出る賛美で始まり、賛美で閉じられています。私たちもまた、理解できないことのゆえに、知っていることを捨てないように気をつけましょう。主は、善い神であり、私たちの砦となってくださるお方であり、身を避ける私たちを知っていてくださるお方です。

「主よ、あなたを信頼します。」

詩篇 88篇

「主、私の救いの神。私は昼は、叫び、夜は、あなたの御前にいます。私の祈りがあなたの御前に届きますように。どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。」(1,2節)

  メッセージ訳では、「あなたは私のラストチャンス」と訳しています。神様が最後のチャンスだと。そして詩人は、ただ主を祈り求めます。神様は時として、私たちがそのような状況に追い込まれることを許されます。使徒パウロも同じ体験をしました。

「打ちのめされて、もうこれ以上生き延びるのはむりかと思い知らされました。」(8節LB)

彼は、自分の無力さを痛いほど思い知らされたというのです。しかし、それで終わりません。パウロは続けて言います。

「しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神様にお任せしたからです。救い出すことができるのは、神様だけです。」(9節LB)

神様は私たちが神様だけを頼るようにされます。

「神様、あなただけを求めます。」

詩篇 79篇

「私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名の
ために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。」(9節)

 詩人は、自分が神の助けを受けるにふさわしいものでないという自覚がありま
した。もっとも神の義の前では、誰一人ふさわしい人はいません。すべての人は
神の目には罪人です。ですから、詩人の希望は、神の御名、すなわち、神のご性
質にありました。神のお名前が、「救いの神」であるがゆえに、神のご性質が、
あわれみ深く、恵み深くあられるがゆえに、私たちを助け、救い出し、私たちの
罪をお赦しくださいと祈ることができました。イエス・キリストの十字架を見上
げる時、私たちは、このことを意識する必要があると思います。神の御名の栄光
のために、私たちは助けられ、救い出され、罪赦されたのです。ですから、私た
ちはすべての栄光を神にお返しします。
「イエス様、あなたの十字架の御業を感謝します。」

5月の日曜日 May Sundays

 5日(日)  エペソ4:1-:10 「クリスチャン・ライフ101」 小山英児牧師 

9時(HC)、10時半(HC)、18時(HC)              (HC)=聖餐式

 12日(日) – 母の日- エペソ6章 「家族の和解」 小山晶子牧師夫人

9時、10時半、18時

 19日(日)  ペンテコステ特別礼拝 

9時、10時半 (18時の礼拝は、鶴見でもたれる合同聖会に合流するため休み)

 26日(日)  エペソ4:11 -:16 「脆弱性対策」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

詩篇 78篇

「彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである。」(7節)

  この詩篇は、イスラエルの歴史が歌われています。歴史は神のストーリー(His-story)です。4節にこう書いてあります。

「この真実の解き明かしを聞いたら、あなたがたもまた、栄光に輝く神様のわざを子孫に説明し、そのめざましい奇蹟を語り伝えて欲しい。」(LB)

私たちは、神様のすばらしい御わざを、自分のうちにだけとどめるのではなく、次から次へと語り伝えるように召されています。

「こうしていけば、各世代の人々は、神様のおきてを守り、神様に希望を見いだし、その栄光に輝く奇蹟を忘れることはないのです。」(7節LB)

神様のすばらしいわざを聞くことを通して、私たちは神様に希望を見出すことが出来ます。次世代に対して私たちが希望をもつためには、次世代の人々が神様に希望を見出すことができるように、神様のすばらしいみわざを私たちが伝えていく責任があります。

詩篇 77篇

「私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。」(11、12節)

信仰生活が冷たいものになってしまうことがあります。どんな素晴らしい奇跡も、慣れてしまうことがあります。神様との生き生きとした関係を回復するためには、まず、第一に、聖書の神は、生ける神であり、今も、奇跡を行われる「奇蹟の神」であるということを思い起こす必要があります。第二番目に、神がしてくださったことを、思い出すだけでなく、そのことを昼も夜も思い巡らし(黙想し)、口ずさむ必要があります。そして第三番目は、神様の御業を心を込めて歌う必要があります。「静かに考えよう」と訳された言葉は、「歌います」と訳される言葉です。神様の御業を歌うことが、私たちの信仰生活に命を与えることは、教会の歴史を見ても明らかです。賛美の歌が、神の御業を解き放ちます。

詩篇 76篇

「神が、さばきのために、そして地上の貧しい者たちをみな、救うために、立ち上がられたそのときに。」(9節)

やがて、イエス・キリストは再臨し、神の救いは完成します。しかし、それまで神様は立ち上がらないという意味ではありません。イエス・キリストが十字架にかかり、復活されたという現実は、神がすでに立ち上がられたことを意味します。神の救いの業は始まっています。そして、キリストを信じる者たちは、聖霊の力を受けて一緒に立ち上がるように召されています。神の救いがこの世界にもたらされていくように、神の国の働きに参与するようにキリストの教会は召されているのです。ですから、マルコの福音書は、このようにまとめられています。

「弟子たちは命じられたとおりに出て行き、あらゆる所でこの福音を宣べ伝えました。主が共に働いてくださったので、数々の奇跡が起こり、弟子たちの教えの確かさが証明されました。」(マルコ16:20LB)

詩篇 75篇

「私たちはあなたに感謝します。神よ。私たちは感謝します。御名は近くにあり、人々はあなたの奇しいわざを語り告げます。」(1節)

ヒルティは、「幸福の最初の条件は感謝である」と言います。感謝することを知らないで、幸せな人はいないと言います。今日の箇所をLBではこう訳しています。

「神様。感謝のことばもありません!この素晴らしい奇蹟の数数は、やっぱり私たちをおこころにかけてくださっていた証拠なのですね。」

神様は私たち一人一人をこころにかけてくださっています。自分という存在そのものが「奇蹟」と言えると思います。イエス・キリストを信じることができることも、奇蹟です。アインシュタインはこう言いました。「人生には二種類ある。一つは奇跡はないと信じる人生、もう一つは、すべてのことが奇跡だと信じる人生だ。」日常の人生そのものが奇跡であると悟るならば、神様がどれほど、自分をこころにかけておられるかが分かるのではないでしょうか。

詩篇 74篇

「確かに、神は、昔から私の王、地上のただ中で、救いのわざを行なわれる方です。」(12節)

イスラエルの人にとって神は昔から王でした。神はモーセを遣わし、エジプトからご自身の民を解放し、約束の地へと導きました。それは、イスラエルを通してすべての人が神の救いのわざを体験するためでした。しかし、イスラエルの人々は、神の民として救いのわざを行なうという使命を見失ってしまいました。それでも、神のみことばは変わることはありませんでした。神の御子、イエス・キリストの十字架に掲げられた罪状は、「ユダヤ人の王」でした。イエス・キリストは永遠の王として、十字架にかかられました。死の力を打ち破られ、よみがえられたイエス様は、今、地上のただ中で、救いのわざを行なわれています。キリストの教会は、神の民として、救いのわざを行なうために存在しています。私たちは宣言します。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」