Ⅱサムエル 9章

「ダビデは言った。『恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。』」(7節)

 ダビデがメフィボシェテを探して呼び出した理由は、彼をいつも王の食卓に招くためでした。神様は、私たちのためにいつも食卓を整えていてくださるお方です。詩篇23:5,6には、こう書いてあります。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

神様は、私たちを祝福したいのです。どんな問題の中にあっても、それを乗り越える力を与えるために、みことばの食事を整えているというのです。神様は私たちに日々聖霊の油を注いで、力を与えようとしているのです。私たちは王の食卓に招かれています。

Ⅱサムエル 8章

「ダビデ王は、それをもまた、彼の征服したすべての国々から取って聖別する銀
や金とともに主に聖別してささげた。」(11節)

ダビデは神様のために神殿を建てることは許可されませんでしたが、神殿を建て
るための準備をし続けました。ダビデは、「自分が建てることができないなら、
自分は何もしない」とは言いませんでした。ダビデは自分の思い通りに神様が用
いてくれないからと怒りませんでした。彼は無責任に誰かがしてくれるとも言い
ません。自分の許された範囲で、一生懸命主に仕えました。事実、ダビデが準備
したから、その子、ソロモンは神殿を建てることができました。そのようにすべ
ての偉大な働きには表と裏があります。偉大な宣教の働きの陰には、祈りをもっ
て宣教師を支えて宣教の働きに携わった無数の人たちがいます。宣教師も宣教を
支える人も、主の目には同じように重要な宣教の働きに携わる人々です。

Ⅱサムエル 7章

「あなたの約束どおりに行なってください。」(25節)

ダビデは自分は立派な家に住んでいるのに、神様のためには何も造っていないことに心を痛め、神殿を建てたいことを預言者ナタンに相談します。神様は神殿を建てることを許可しませんでしたが、そんなダビデの家系から救い主が生まれることを約束します。ダビデはどこまでその約束の意味を理解していたかは分かりませんが、信仰をもって「あなたの約束どおりに行なってください。」と祈ります。聖書にはたくさんの約束が記されています。スポルジョン師はこんなことを言っています。「神の約束をもってうるさく迫れば、神が迷惑されるなどとは思うな。神はたましいが大声で泣き叫ぶのを好まれ、恵みを施すのを喜ばれる。あなたの求めるよりも、はるかに熱心に、神は聞こうとされる。太陽は照らすのに飽きることはなく、泉は流れることを煩わしいとは思わない。約束を守られるのは、神のご性格である。」

Ⅱサムエル 6章

「ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。」(14節)

 ダビデは神様の前で人々と一緒に喜び踊りました。この箇所に、彼の神様に対する情熱を感じます。彼は王服を脱ぎ、一般の人々と同化して踊りました。日々、王としての役割は果たすけれども、神様の前ではみんな同じという彼のメッセージを感じます。実際、ダビデの姿は王様らしくないと嫌味を言ったミカルにこんなことを言います。「わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」(22節新共同訳)ダビデの賛美に対する姿勢を、心に留める必要があると思います。「神様に喜びを表すためなら、たとい気が変になったと言われてもかまわん。いや、ばかと思われてもよいのだ。」(21、22節)今日は主の日。私たちもそれぞれの立場という服を脱いで、主の前で、心から賛美を捧げましょう!

Ⅱサムエル 5章

「それで、ダビデはバアル・ペラツィムに行き、そこで彼らを打った。そして言った。『主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた。』それゆえ彼は、その場所の名をバアル・ペラツィムと呼んだ。」(20節)

バアル・ペラツィムは「打ち破られる主」という意味があります。私たちの神様は、打ち破られる、ブレイク・スルーの主です。目の前にどんな壁が立ちはだかっていても、神様は打破してくださいます。神様は、今日、私たちの直面している問題の壁を打ち破りたいと願っておられます。ダビデの問題を打ち破った神様は、今も変わらずに、同じように私たちの問題を打ち破ってくださいます。ダビデがこの打ち破られる主を体験することができたのは、彼が神様に伺うこと、つまり、祈ることを大切にしたからです。実際、この大成功を収めた後も、彼は自分の裁量ではなく、再度主に伺って行動しています。ここに鍵があります。

Ⅱサムエル 4章

「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。」(9節)

 ダビデは、彼のいのちを救い出してくださったのは神様だと言うことを理解していました。使徒パウロも同じことを告白しています。「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」(Ⅱコリント1:9,10)LBではこう書いてあります。「・・・自分の無力さを痛いほど思い知らされました。しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神様にお任せしたからです。救い出すことができるのは、神様だけです。」ダビデもパウロも、今の自分があるのは神の恵みであることを理解していました。

Ⅱサムエル 3章

「これらはヘブロンでダビデに生まれた子どもである。」(6節)

 聖書には、はっきりと「多くの妻を持ってはならない。」(申17:17)と、一夫多妻を否定しています。しかし、ダビデは多くの妻をもってしまい、それが多くの問題を彼の人生に引き起こしました。しかし、聖書はダビデの失敗を隠すことなく、そのまま記録しています。私たちは、神様が完全な人しか用いることができないと思います。しかしダビデという人物は本当に不完全な人でした。神様に対する心がある限り、神様は不完全な人を用いてくださいます。この事実は私たちに人に対する健康な見方を与えてくれます。人は私たちを失望させることがあります。人は不完全であり、失敗することがあります。ですから、私たちはイエス様から目を離してはいけないのです。イエス様だけが完全なお方だからです。「主よ、不完全な私たちを用いてくださることを感謝します。」

Ⅱサムエル 2章

「この後、ダビデは主に伺って言った。『ユダの一つの町へ上って行くべきでしょうか。』すると主は彼に、『上って行け。』と仰せられた。ダビデが、『どこへ上るのでしょうか。』と聞くと、主は、『ヘブロンへ。』と仰せられた。」(1節)

 ダビデは神に伺うことなくペリシテ人の地に行ってしまった結果、多くの苦い経験をしてしまいました。今回は、神に伺ってから、ヘブロンへ向かいました。この時からダビデの人生は開けていきます。私たちは自分の目にいい道を選ぶのではなく、神に伺いながら進むことが大事です。神は私たちに将来と希望を与えたいからです。アルファ・コースのニッキー先生は神の導きを知ることが出来る5つの方法があると言います。一、聖書の命令。二、聖霊の強いうながし(祈る時に語られる。強い願い。特別な方法)。三、常識。四、クリスチャンの助言。五、状況的なしるし。これらの五つを見ていくことが必ず助けになります。

Ⅱサムエル 1章

「ダビデは言った。『主に油そそがれた方に、手を下して殺すのを恐れなかった
とは、どうしたことか。』」(14節)

ダビデの命を狙っていたサウル王にとどめを刺した人物に、ダビデは感謝するど
ころか、神の油注ぎを軽視したと裁きました。神の油注ぎはすでにサウル王から
離れていましたが、ダビデはまだサウルがイスラエルの王として油注がれたこと
を尊敬していたからです。この姿勢は大事です。どんな人物であろうと、牧師、
伝道者は神様に教職者として油注がれた人たちです。彼らが誤ったことを行うな
らば、それは悲劇であり、本当に悲しいことです。しかし、私たちがその人物を
引きずりおろす必要はありません。神が必ずされるからです。聖書は言います。
「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私た
ち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)
「主よ、あなたの油注がれた人物に手を下すことがありませんように。」

Ⅰサムエル 31章

「ヤベシュ・ギルアデの住民が、ペリシテ人のサウルに対するしうちを聞いたとき、勇士たちはみな、立ち上がり、夜通し歩いて行って、」(11、12節)

 ヤベシュ・ギルアデの勇士たちは、命をかけてサウル王の死体を取りにいったとあります。彼らはどうしてそこまでしたのでしょうか?サウルが王になって、最初にサウル王が助けた人々がヤベシュの人々でした。(11章参照)彼らはそのことに対する感謝をずっと忘れなかったと考えられます。聖書は言います。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38)イエス・キリストは、文字通り私たちのために身代わりに十字架にかかられ、いのちを与えてくださいました。ヤベシュの人々のように感謝を忘れない者でありたいと思います。