マタイ 19章

「イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」」(19:21)

多くの財産を持っていた青年の

「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(16節)

という質問に対して、イエス様は十戒と隣人愛を引用します。

青年が

「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」(20節)

という質問に対して、イエス様は青年の欠けていた部分を指摘します。

青年は自分の欠けを認めて、イエス様に従うこともできたはずです。

しかし、彼は

「悲しみながら立ち去った。」(22節)

と言います。

この青年とは対照的に取税人ザーカイは自分の財産を施しイエスに従ったことが記録されています。(ルカ19章)

「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」(26節)

マタイ 18章

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(18:20)

新型コロナの影響もあって、集まることに注意が必要なことは確かです。

しかし、イエス様の名に置いて集まっているところに、イエス様もその中にいるという約束を私たちは忘れてはいけないと思います。

イエス様の臨在ほど大切なものはありません。

もちろん、イエス様はいつも共におられます。

しかしイエス様は、イエス様の名において集まるところには、その中にいると約束されました。

ですから、キリスト教会は、共に集まることを大切にします。

聖書は言います。

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」(ヘブル10:25)

マタイ 17章

「しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」(17:27)

イエス様が神殿税を納めたという内容です。

イエス様は神の御子であるがゆえに、神殿税を支払う義務はないということを確認した上で、ユダヤ人たちをつまずかせないために納めたことが記録されています。

本質以外は寛容であれという原則をここに見ることができます。

本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもって。

ということです。

マタイ 16章

「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。」(16:21)

使徒ペテロが

あなたは生ける神の子キリストです。」(16節)

と信仰告白し、イエス様がこの信仰告白の上に

わたしはわたしの教会を建てます」(18節)

と宣言された時、イエス様はご自身の十字架の受難を予告しました。

これは熱烈な政治的メシア待望の中にいたユダヤ人たちには理解できない内容でした。

信仰告白をしたペテロもこのことを理解せず、イエス様をいさめたために、「サタン」と叱責されます。

十字架なくして冠なし、(No cross, No crown)

イエス様の十字架の御業無くして、救いの恵みはありません。

だから教会はキリストの十字架を高く掲げます。

マタイ 15章

「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」(15:14)

イエス様のパリサイ人たちに対する態度ははっきりしていました。

冷たく感じますが、「放っておきなさい」とイエス様は言われました。

聖書は言います。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。」(ヤコブ3:1)

教える立場にある人はより厳しいさばきを受けます。

盲人が盲人を案内することにならないように、私たちは謙遜に聖霊なる神様を教師として歓迎する必要があります。

マタイ 14章

「イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。」(14:27)

弟子たちはイエス様に促されて舟に乗り込み、先に向こう岸に向かっていました。

しかし、強い向かい風と大波に悩まされました。

主のみこころに従っているからといって向かい風を体験しないとは限りません。

大波に悩まされているのは、神のみこころに逆らっているからとは限りません。

大事なのは、そんな弟子たちのところにイエス様が来られたことです。

しかし弟子たちはイエス様を幽霊だと言って取り乱したとあります。

そんな弟子たちにイエス様は言われました。

しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」。

今は恐れの時ではありません。信仰の時です。

信仰と恐れは、互いに相容れません。

信仰は恐れを消し、恐れは信仰を消します。

目の当たりにする嵐のような状況に取り乱すのではなく、「わたしだ。」と言われるイエス様を信仰によって認識できますように。

マタイ 13章

「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(13:23)

「種を蒔く人のたとえ」として有名な箇所です。

明らかに「種を蒔く人」とは神のことであり、蒔く種は「みことば」(御国のことば)のことです。

蒔かれた「みことば」がすべて実を結ぶわけではありませんが、神はそれでも蒔き続けていると言います。

そして、確実に実を結ぶと言います。

ここで重要とされていることは「みことば」を悟ることです。

それは、知的な了解のことではありません。

「みことば」に生きるということです。

どんなに聖書のみことばを聞いても、みことばに生きようとしなければ、「悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。」(19節)

しかし、みことばに生きる人が「実を結びます。」(23節)

今日は主の日。共に主の御言葉に耳を傾け、主に礼拝を捧げましょう。

マタイ 12章

「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(12:28)

神の国、それは神の統治、神の支配を表わします。

ですから、イエス様は神の力(権威)によって悪霊を追い出しているならば、ここに神の国があると言われました。

天国が神の国と呼ばれるのは、天では神のみこころが行われているからです。

私たちは天で神のみこころが行われているように、この地で神のみこころが行われるように生きることが求められています。

神のみこころが行われている所、そこに、神の国があるからです。

神のみこころが行われているなら、「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」。

マタイ 11章

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(11:28-30)

「くびき」は、強い牛と弱い牛二頭の首に載せて使うことによって、弱い牛が自分の力以上の働きができるようにするものでした。

わたしのくびきは負って」とイエス様が言われたのは、イエス様と共に働くことによって、私たちも力ある働きをすることができることを示唆しています。

イエス様はまた、「わたしから学びなさい。」と言われました。

イエス様は完全な神ですが、完全な人となってくださいました。

それは、私たちがどうやって生きたらいいかを示すためでもありました。

私たちはイエス様から学ぶ姿勢も大切です。

マタイ 10章

「イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。」(10:1)

十二弟子たちは、イエス様から権威を授けられたから、悪霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすことができました。

ですから、大事なことは、イエス様から権威を授けられることです。

復活されたイエス様は弟子たちに言われました。

「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」」(28:18-20)

地域教会はイエス様から権威が授けられて、大宣教命令が託されています。