ヨハネ 1章

「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1:1)

「初めに」という始まりは、創世記1:1と同じです。

創世記は古い創造について、ヨハネは新しい創造について語っています。

だれでもキリストのうちにあるなら、そこには新しい創造があります。」(2コリント5:17欄外)

「ことば」と訳された単語は「ロゴス」ですが、ギリシア哲学で扱われる概念とは違います。

神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。」(創世記1:3)

とあるように、「ことば」は神が行動していることを示します。

「ことばは神であった」とあるように、子なる神、イエス・キリストの行いと言葉は、父なる神の行いと言葉と同じということです。

父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(18節)

聖書の神は、子なる神、イエス・キリストを通して明らかにされた神です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ルカ 24章

「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(24:49)

死からよみがえられたイエス・キリストは弟子たちの前に現れ、大宣教命令を告げます。

「『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」(46-48節)

興味深いことは、出ていく前に、

「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

と言われたことです。

自分の力ではなく、神の霊の力によってでなければならないと言われたのです。

聖霊の力を求めることからはじめるように告げたのです。

イエス様は言われます。

「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(11:13)

ルカ 23章

「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」」(23:34)

イエス・キリストが十字架の上で語られた言葉の一つが、この

父よ、彼らをお赦しください。

でした。

イエス・キリストはご自身に対する憎しみの言動に対して、憎しみで応じることはありませんでした。

聖書は言います。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(1ペテロ2:23,24)

イエス・キリストはあの十字架で憎しみの連鎖を打ち砕かれました。

だから言います。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(1ペテロ3:9)

ルカ 22章

「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(22:32)

失敗は終わりではありません。

イエス様はペテロをはじめ弟子たちが皆、自分のことを裏切ることを知っていました。

「あなたがたを」(31節)とあるように、ふるいにかけられたのはペテロだけではありません。

弟子たち全員です。

イエス様は「そんな弱い信仰ではダメだ」と責めたのではなく、

信仰がなくならないように祈りました。

と言いました。

事実、ペテロがイエス様を裏切った時、

主は振り向いてペテロを見つめられた。」(61節)

とあります。

それは、忘れられないほど、憐れみに満ちた眼差しだったのだと思います。

立ち直ったら、他の兄弟たちを励ますように

と言われたイエス様は、今も、私たちが信仰を失わないように祈られ、私たちが励まし合うことを願っています。

ルカ 21章

「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」(21:34-36)

イエス様はこの世の終わりを明言されました。

「その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。」(35節)

私たちは、その日がいつ来ても大丈夫な生き方を心がけるよう求められています。

「放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされ」

ているならば、目を覚ましているとは言えません。

私たちは天で神のみこころが行われているように、この地上で神のみこころを行うために生きています。

神のみこころは、祈ることなく行うことはできません。

日々、

「御国が来ますように」

と祈る姿勢が大切です。

ルカ 20章

「彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。」(20:36)

サドカイ人とは祭司を中心とした特権階級の人たちのことです。

彼らはモーセ五書(律法)以外の旧約聖書を認めず、唯物論者で、復活を否定していました。

それでイエス様はあえてモーセ五書から答えられます。

「モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。」(37節)

「昔アブラハムの神だった」ではなく、今も「アブラハムの神」であると今も生きているかのごとく語りました。

死が終わりではなく、死後の世界が存在し、復活があることを明確に語られたのです。

この世がすべてではありません。

永遠の視点をもつ必要があります。

今、いかに生きるかはとても重要です。

なぜなら、「神に対して、すべてが生きています。」(38節MSG)

ルカ 19章

「それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」(19:44)

イエス様はエルサレムを見て

泣いて、言われた」(41節)

と言います。

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。」(42-44節)

この後、四〇年も経たず、エルサレムは包囲され、ローマ帝国に攻められ、滅ぼされます。

その根本的な問題を、イエス様は、

神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ

と言われました。

神の訪れの時を私たちは意識する必要があります。

今こそ、恵みの時、今こそ救いの日です。

ルカ 18章

「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」(18:14)

聖書に出てくるパリサイ人は、旧約聖書と新約聖書の間、中間時代に誕生しました。

当時、アレキサンダー大王の東方遠征により、地中海世界はギリシア化(ヘレニズム)されていきました。

その中で、保守的な信仰を守ろうとした敬虔主義の人たちにその起源があります。

そんなパリサイ人たちの問題はこのパリサイ人の祈りに表されるように、自分たちの律法の行いに土台をおいていたことです。

これと対照的なのは取税人の祈りです。

神様、罪人の私をあわれんでください。」(13節)

当時の取税人はローマ帝国に代わって税を徴収していた人々で、蔑まれていました。

結局、自分の力に過信するか、神の恵みに信頼するか、その違いです。

今日は主の日。共に主の恵みによって礼拝を捧げましょう。

ルカ 17章

「ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子が現れる日にも、同じことが起こります。」(17:29,30)

聖書はこの世が終わることを預言します。

イエス・キリストが再び来られる、再臨を約束しています。

ロトがソドムから出て行ったその日に裁きがくだったように、キリスト者がこの世から一挙に引き上げられる時、大患難時代と呼ばれるこの世に対する裁きがもたらされます。

「人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、」(28節)

とあるように、思いがけない時にその日はやってきます。

主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。」(2ペテロ3:9,10)

ルカ 16章

「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。」(16:15)

「金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。」(14節)

と言います。

パリサイ人たちは、自分たちは力、富、権威があるから自分たちの生き方は正当化されていると考えていました。

しかし、イエス様は、

「神はあなたがたの心をご存じです」

と言われました。

イエス様はこの後、金持ちとラザロのたとえ話を通して、生前の社会的立場が、死後反転しまうという転換によって現状を考えさせます。

そもそも、人は生まれた場所や状況によって立場が違います。

ですから、今、自分が与えられた立場や富を全て自分の努力の結果とし、当然受けるべきものとするべきではありません。

死後の世界で全く別の環境に置かれたならばどうでしょうかとイエス様は問います。