1テサロニケ 5:1-11

「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。」(5:10)

クリスマスをファースト・アドベント(初臨)と呼び、キリストが再び来られる日をセカンド・アドベント(再臨)と呼びます。

その時は誰にも分かりません。

人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき」(3節)、

突然、その日が訪れると言います。

しかしペテロは

あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」(4節)

それは、その日が分かるということではなく、いつその日が来ても大丈夫なように生きているからということです。

主とともに生きるようになる」なら、心配する必要はありません。

ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。」(11節)

2ペテロ 3:11-18

「このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。」(3:11)

クリスマスにイエス・キリストが誕生したように、聖書は明確に、キリストが再び来られることが約束されています。

しかし、聖書の時代からその約束を待つことに疑いを持つ人たちがいました。

その日がまだ来ていないのは、一人でも多くの人が悔い改めに進むことを望んでいるからだと言います。

主の忍耐だと。

しかし主の日は、盗人のように、思いがけない時にやって来ます。その時、天は恐ろしいとどろきと共に消えうせ、天体は焼けて崩れ落ち、地と地上のすべてのものは跡形もなく焼き滅ぼされてしまいます。」(10節LB)

待ち望んでいる私たちに求められていることは、主を待ち望むことと、最高の人生を生きることです。

神の約束を信じ、聖なる敬虔な生き方を心がけることです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

1テサロニケ 4:13-18

「それから、皆さん。クリスチャンが死んだらどうなるか、よく知っておいてほしいのです。

悲しみのあまり取り乱して、何の希望もない人たちと同じようにならないためです。

私たちは、イエスが死んで復活されたことを確かなことと信じています。

ですから、イエスが帰って来られる時、すでに死んで世を去ったすべてのクリスチャンを、神が共に連れて来てくださると信じてよいのです。

私は主から直接聞いたとおりを伝えるのですが、主が再び来られる時、私たちがまだ生きていたとしても、すでに墓の中にいる人たちをさしおいて主にお会いすることは、断じてありません。

主は、大号令と、天使の長の声と、神の召集ラッパの響きと共に天から下って来られます。

その時、まず最初に復活して主にお会いできるのは、すでにこの世を去っているクリスチャンです。

それから、なお生きて地上に残っている私たちが、いっしょに雲に包まれて引き上げられ、空中で主とお会いするのです。

そして、いつまでも主と共に過ごすことになります。

ですから、このことをわきまえて、互いに慰め合い、励まし合いなさい。」(LB)

携挙、空中再臨などと呼ばれている箇所です。この世界の終わりに、クリスチャンを一挙に引き上げられると言います。「このことをわきまえて」一人でも多くの人に福音を伝えていく責任があります。

1テサロニケ 4:1-12

「最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。」(4:1)

私たちは日々、「神に喜ばれるためにどのように歩むべきか」を学び、そう歩むように心がけることが大切です。

今日の箇所で具体的に言及されていることは情欲におぼれないということです。

現代のポストモダンの価値観は倫理観を狂わせている感じがします。

大事なことは社会の風潮に合わせることではなく、神のみことばに土台することです。

聖書は言います。

私たちが神に召されたのは、汚れた思いや情欲のとりこになったりするためではなく、きよく清潔な生活を送るためです。もし、これらの戒めに従うことを拒むなら、人にではなく、聖霊を与えてくださった神にそむくことになるのです。」(7,8節LB)

1テサロニケ 3:1-13

「そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。」(3:13)

キリスト教会の働きはビジネスとは違います。

なぜなら、キリストの再臨、神の御前に立つ日を念頭において活動しているからです。

牧師の心配は、教会員が皆、天の御国に行けることです。

使徒パウロは

主にあって堅く立っていてくれるなら、それだけで、私たちはどんな困難にも耐えていけます。」(8節LB)

と言っていますが、それが正直な気持ちです。

神のみこころは一人も滅びることなくということですから、私たちは一人でも多くの人に福音を伝えます。

イエス様が再び来られる日が近い今、その時まで、一人でも多くの人が救われるように伝えることは、私たちの使命(ミッション)です。

マタイ 24:23-35

「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。」(24:30)

イエス・キリストがこの地に生まれたことを覚えるアドベント(待降節)の季節に、イエス・キリストが再び来られるセカンド・アドベント(再臨)を覚えることは大切なことです。

イエス・キリストは再びこの地に来られます。

だからこそ、偽預言者たちに惑わされないように気をつける必要があります。

もし、自分は再臨のキリストだと言う人がいれば、それは偽キリストです。

キリストの再臨は

天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来る

からです。

イエス様は言われます。

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(35節)

惑わされないためにも、私たちは神の言葉である聖書を学ぶ必要があります。

ヘブル 11:32-40

「これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても語れば、時間が足りないでしょう。」(11:32)

ヘブル人への手紙の十一章は信仰の章として有名です。

聖書に出てくる信仰の人たちのリストが挙げられ、全員の名前を挙げたら時間が足りないと言います。

彼らは別に完全な人ではありませんでした。

しかし、信仰によって生きました。

どんなことがあっても、神を信頼して生きたのです。

私たちはこのような信仰の先輩たちがいる事を心に留める必要があります。

このように多くの証人たちが雲のように私たちを取り巻いていることを忘れてはいけないと思います。

信仰の先輩たちは私たちに言います。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(11:6)

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聖書箇所は「 聞くドラマ聖書」でも読む/聞くことができます
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ローマ 16章

「あなたがたは聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。すべてのキリストの教会が、あなたがたによろしくと言っています。」(16:16)

「聖なる口づけ」は文化的なものですから、「真心のこもったあいさつ」と訳す方が良いと思います。

パウロのポイントは、これらの人々を互いに、家族のように歓迎し、交わりの中に加えて欲しいということです。

「よろしく」と訳された単語は、「あいさつをしてください」という命令形で、キリストの教会はみな「あいさつしている」と結んでいます。

ある牧師はこのように言います。

「礼拝においでになる方の中には、神様と交わりを持ちに来たのだ ‐ だから人間同士で触れ合うことは、あまり大切ではないと考える人もあるかもしれません。しかし、イエス様のおっしゃった二つの大切な戒めも、神への愛と隣人への愛と二つの局面が指摘されています。(中略)礼拝に出席し、誰ともあいさつすることなく帰ったということのないようにしましょう。」

ローマ 15章

「かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。」(15:4)

教会の暦では今日からアドベント(待降節)が始まります。

イスラエルの国の理想的なストーリーは、イスラエルの国が十戒をはじめとする神の律法を忠実に守り、この世界の祝福の基となることでした。

しかし、旧約聖書にはその理想的なストーリーに生きられなかったイスラエルの姿が描かれています。

聖書は私たちに、そんなイスラエルをも神は見捨てなかったことが記されています。

そして、来たるべきメシヤ、イスラエルの王が、そのイスラエルの理想的なストーリーを成就されたという希望を提示しています。

そのことを覚えつつ、聖書が与える忍耐と励ましによって、このアドベントを過ごしましょう。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ローマ 13章

「さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。」(13:11)

聖書はイエス・キリストがこの世界の終わりに再び来られること(再臨)が約束されています。

そして、その日はもっと近づいています。

私たちはイエス様がいつ来てもいいような生活をすることが求められています。

そもそも、イエス・キリストが死からよみがえられたことによって「すでに」夜明けは始まっています。

完全な昼は「まだ」です。キリストが再び来られる時に完全な昼は訪れます。

しかし、キリストが死からよみがえられたことによって、「すでに」夜明けは始まりました。

パウロのポイントは、この「すでに」と「まだ」という時に生きているということが分かっているならば、そのことを知っている者らしく生きるようにということです。