2サムエル 3:22-39

「この私は油注がれた王であるが、今日の私は無力だ。ツェルヤの子であるこれらの者たちは、私にとっては手ごわすぎる。主が、悪を行う者に、その悪にしたがって報いてくださるように。」(3:39)

ダビデの将軍ヨアブとその兄弟たちは、力ある軍人でした。

「しかし、ダビデはそのことを知らなかった。」(26節)とあるように、ダビデの知らないところでアブネルは殺害されました。

ダビデはヨアブとその兄弟たちを制御することができませんでした。

ダビデは自分でどうすることもできないことを認めて、主なる神のもとに持っていきました。

どうしたらいいか分からない時、私たちは主に持っていくことができます。

主が取り扱ってくださいます。

祈りによってすべてのことを主に持っていくことができることはなんという特権でしょうか。

平安を失い、必要のない痛みを抱えるのは、主のもとに持っていかないからです。

今日は主の日。共に、礼拝を捧げましょう。

2サムエル3:12-21

「アブネルはイスラエルの長老たちと話してこう言った。「あなたがたは、かねてから、ダビデを自分たちの王とすることを願っていた。今、それをしなさい。主がダビデについて、『わたしのしもべダビデの手によって、わたしはわたしの民イスラエルをペリシテ人の手、およびすべての敵の手から救う』と言われたからだ。」」(3:17,18)

イスラエルの人々は

「かねてから、ダビデを自分たちの王とすることを願っていた。」

と言います。

ところが、政治的な理由などでそれができなかったと言います。

しかし、

「今、それをしなさい。」

と促されます。

イエス・キリストの福音を聞いていても、イエス・キリストを自分の人生の王、救い主とする機会を失っている人たちがいます。

「今、それをしなさい。」

と促される必要がある人もいるのだと思います。

聖書は言います。

「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(2コリント6:2)

今がその時です。

「今、それをしなさい。」

2サムエル 3:1-11

「ダビデにはヘブロンで子が生まれた。長子はイズレエル人アヒノアムによるアムノン。」(3:2)

神は警告されました。

王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。」(申命記17:17)

しかし、今日の箇所で、ダビデに多くの妻と子がいたことが分かります。

結果的に、このことのゆえに問題が起こります。

聖書はダビデの失敗を隠すことはありません。

この箇所が私たちに教えていることは、神は不完全な人間を用いるということです。

神はどんなに弱さを抱えていても用いることができます。

このことは私たちに健全な視点を与えます。

どんなに用いられている人も完全ではありません。

神は完全です。

しかし、神が用いる人は不完全です。

ですから、人を神格化してはいけません。

そして、こんな自分でも神が用いてくださることを感謝しましょう。

2サムエル 2:12-32

「アブネルはヨアブに呼びかけて言った。「いつまでも剣が人を食い尽くしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。いつになったら、兵たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。」」(2:26)

アブネルとヨアブの戦いはイスラエルの国内の内戦、同胞同士の戦いでした。

イエス様が

どんな国でも内輪もめしたら荒れすたれ、家も内輪で争えば倒れます。」(ルカ11:17)

とおっしゃったように分裂する国の果てはひどいことになります。

ですから、イエス様は祈られました。

わたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」(ヨハネ17:22)

教会は神の臨在、神の栄光が満ち溢れている場所です。

それは、一つになるためだと言います。

互いに争い合っていたら、宣教の業が前進することはないからです。

2サムエル 2:1-11

「ダビデがヘブロンでユダの家の王であった期間は、七年六か月であった。」(2:11)

ダビデは、預言者サムエルから油注ぎを受けた、イスラエルの正統的な次の王でした。

ところがこの時、彼の部族であるユダの王にはなれたのに、他部族はサウル王の子イシュ・ボシェテを王としました。

私たちは、「この問題さえなくなればすべてはうまくいく」と考えたりします。

しかし、現実は、その問題が消滅しても、別の問題が表面化するということが起こります。

サウル王が死んでも、ダビデの問題は解決しませんでした。

ダビデは、この七年六か月「自分こそ全イスラエルの王となる人物だ」と主張することはありませんでした。

神の時を待ちました。

ヘブル語では「待つ」という単語から「希望」という単語が派生します。

ですから、聖書的に言うならば、「待つ」ことのない「希望」はありません。

「待つ」ことなしに「希望」はありません。

2サムエル 1:17-27

「これはユダの子らに弓を教えるためのもので、『ヤシャルの書』にまさしく記されている。」(1:18)

「ヤシャルの書」は現存しません。

「英雄伝」に等しいものと言われます。

弓を教えるための哀歌とは、ダビデがユダ族の父親たちに、弓の使い方を子どもたちに教えるように命じたという意味だと言われます。

なぜ「弓」なのか。

それはヨナタンが弓の名手だったからです。

ヨナタンの弓は退くことがなく」(22節)

とあるように。

弓を教えることは、ヨナタンを記念することであり、弓を教えることによって、ヨナタンの影響力は、ユダの民の中に生き続けていきました。

ダビデがヨナタンとの出会いを通して、弓の大切さを知り、ヨナタンの記念として弓を教えたということが、神の摂理の中にあったということです。

神は私たちの人生の中でも様々な出会いを与え、その出会いを通して大切なことに気づかせて下さいます。

それを教えていくということも、神の摂理の中にあります。

2サムエル 1:1-16

「ダビデは自分の衣をつかんで引き裂いた。ともにいた家来たちもみな、そのようにした。」(1:11)

自分の衣をつかんで引き裂くという行為は、イスラエル民族の悲しみの表現です。

悲しむことは、決して不信仰なことではありません。

ダビデが天国の希望を持っていたとは思えませんが、たとえ、天の御国で再会するという確信があったとしても、別れというものは辛いものです。

悲しみを現すこと自体は、不信仰でも悪いことでもありません。

逆に私たちの心に良いものだと聖書は言います。(伝道7:3)

サウル王の死を知らせた若者は、ダビデが喜び、褒美をもらえると思ったと思います。

しかし、ダビデは違いました。

ダビデは神を恐れ、神の油注ぎを軽く考えることはありませんでした。

神を恐れることが知恵の初めであることを心に留めたいと思います。

マタイ 28:1-15

「御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」(28:5,6)

イエス・キリストはよみがえられました。

女性たちは十字架につけられたイエス様の遺体に香料を塗るため、明け方、葬られた墓に向かいました。

その結果、彼女たちは、空っぽの墓の目撃者となっただけでなく、その帰りによみがえられたイエス様を拝することまでできました。

聖書は言います。

主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ55:6,7)
今日は主の日(復活祭)。

共に、よみがえりの主に礼拝を捧げましょう。

イザヤ書 53:4-12

「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(53:5)

今日の箇所は、「苦難のしもべ」と呼ばれるメシア預言です。

ヘンリ・ナウエンという神学者が、こんなことを言っています。

イエスは、私たちのために十字架上で死に渡されて、私たちを救うために来てくださった主です。そして栄光を受けた体にしるされた傷は、私たちがどのように救われたかを思い起こさせてくれます。さらにそれは、私たち自身の傷も、神へと向かう妨げにならないばかりか、それ以上のものであることをも思い起こさせます。(中略)受けた傷によってイエスであると判別できたように、私たちもそうなります。

イエス様が十字架という苦難を通して救いをもたらされたということが私たちにとって不可解だったように、私たちの人生の傷を通してでなければわからない世界があります。

自分が願ったように物事が展開していかないと、私たちは受け入れがたく感じます。

しかし、神が人類に与えてくださった救いの道が、私たちが想定するような方法ではなく、神の子が十字架にかかって死ぬことを通してであったのと同じように、神が私たちの人生を導かれる方法は想定を超えています。

ですから、信仰が求められます。

マタイ 27:35-53

「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。」(27:42)

イエス様は十字架から降りることもできたと思います。

しかし、すべての人の罪を赦すためには、

イエス様は、どうしても、十字架にかかり、死に、葬られ、復活する必要がありました。

罪の呪いを打ち砕くためには、

どうしても、十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえる必要がありました。

イエス・キリストを信じる者が一人として滅びることなく永遠の命をもつため、

どうしても、十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえる必要がありました。

イエス・キリストを受け入れた人を、神の子どもとするため、

どうしても、十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえる必要がありました。

イエス様を十字架につけていたのは釘ではありません。

私たちに対する神の愛です。