2サムエル 14:25-33

「アブサロムは二年間エルサレムに住んでいたが、王の顔を見ることはなかった。」(14:28)

ダビデ王は、アムノンを殺したアブサロムを、本当の意味で赦すことができていなかったのかもしれません。

アブサロムがエルサレムに戻ってくることを許可したものの、顔は見たくないと、親子の関係を修復することを願いませんでした。

その結果、この後、アブサロムの謀反が起こります。

ちいろば先生(榎本師)はこう言います。

「神による和解でなければそこからは真実の交わりは回復されるものではない。」

残念ながら、ダビデ王もアブサロムも神の御前に悔い改めたとは書いてありません。

アブサロムはヨアブを動かして、ダビデと面会しますが、形式的なものに終わってしまいます。

本当の和解はただ、イエス・キリストから来ます。

聖霊の力を求める必要があります。

2サムエル 14:12-24

「私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることができない水のようなものです。しかし、神はいのちを取り去らず、追放されている者が追放されたままにならないように、ご計画を立ててくださいます。」(14:14)

人間は死亡率一〇〇%です。

その時が来たら、地面にこぼれた水のように、もう集めることはできません。

この章に出てくる女性はダビデに、彼の息子に対する苦々しい思いを持ち続けることを警告しています。

和解の機会を逃してしまう前に、和解の計画を立てるようにと。

家族が別れ別れになってしまうのは悲しいことです。

私たちは見知らぬ人より、愛する人に対して厳しい目で見やすい傾向があります。

神は私たちが神に敵対していた時に、私たちにイエス・キリストを与えてくださり、追放されたままにしておかないように、赦しと和解のご計画を立ててくださったことを覚えます。

2サムエル 14:1-11

「ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブサロムに向いていることを知った。」(14:1)

アブサロムをイスラエルに連れ戻すことは、政治的にも、司法的にも問題があることでした。

しかし、ダビデの思いはアブサロムに向いていました。

それで、ダビデの軍の将軍であるヨアブはテコアの女性を用いてダビデの感情に訴えます。

どうか王様。あなたの神、主に心を留め、血の復讐をする者が殺すことを繰り返さず、私の息子を消し去らないようにしてください。」(11節)

感情的に罪をうやむやにしていいわけではありません。

罪に対する代償は支払う必要があります。

ですから、神の御子、イエス・キリストは、私たちの罪の代償として、あの十字架で死ぬ必要がありました。

神は私たちの罪をうやむやにされたわけではありません。

イエス様が代わりに支払ってくださったのです。

そのことを私たちは忘れるべきではありません。

2サムエル13:30-39

「アブサロムのところに向かって出て行きたいという、ダビデ王の願いはなくなった。アムノンが死んだことについて慰めを得たからである。」(13:39)

タマルの事件によって憎しみを抱いていたアブサロムはアムノンを殺しました。

恨みや憎しみを取り扱うことなく放置するならば悲劇を生みます。

聖書は言います。

あなたがたのうちのだれも、神の祝福を失わないよう互いに注意し合いなさい。あなたがたの間に、憎しみや悪意がはびこらないよう十分に警戒しなさい。それは、多くの人の信仰生活に害を及ぼすからです。」(ヘブル12:15LB)

ダビデはアブサロムの苦い根を扱うためでなく、アムノンの死のことをあきらめます。

ダビデは、アムノンの死についてしばらく嘆き悲しんでいましたが、ようやくあきらめがついたのか、アブシャロムに会いたいと思うようになりました。」(LB)

これは、さらなる悲劇の序章でしかありませんでした。

苦い根は取り扱われる必要があります。

2サムエル 13:15-29

「ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った。」(13:21)

ダビデはアムノンがしたことを聞いた時に、「激しく怒った」とあります。

聖書は、「激しく怒った」以外にダビデがしたことは何も書いていません。

子どもたちをしつける時に、怒りに身を任せてはいけませんし、しつける時は、心を落ち着かせてから行うべきです。

怒鳴るだけでは何も意味がありません。

もっとも、ダビデが何もしなかったのは、自らの罪のゆえだったかもしれません。自分には子どもたちを注意する資格はないと思ったのかもしれません。

しかし、このようなダビデ症候群には気をつける必要があります。

どんなに失敗や過ちを過去に犯していたとしていても、注意すべき時に注意することは大切なことです。

さらに、ダビデはこのことを聞いて、神に祈ったとも書いてありません。

ダビデは激しく怒るだけでなく、神の前にとりなして祈るべきだったことは明らかです。

2サムエル 13:1-14

「その後のことである。ダビデの子アブサロムに、タマルという名の美しい妹がいた。ダビデの子アムノンは彼女に恋をした。」(13:1)

アムノンはタマルに「恋をした」とありますが、愛したとは言いません。

彼女の美しさに情欲を抱いただけで、愛していたわけではなかったからです。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」(1コリント13:4-7)

アムノンはタマルを愛していたわけではなかったので、自分の情欲を満たしたら、激しい憎しみにかられて彼女を追い出します。

愛ならば、「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」

2サムエル 12:16-31

「ダビデは妻バテ・シェバを慰め、彼女のところに入り、彼女と寝た。彼女は男の子を産み、彼はその名をソロモンと名づけた。」(12:24)

ダビデは罪を犯しました。

しかし、神はダビデを見捨てることはありませんでした。

ダビデは悔い改め、懲らしめを受けました。

神はダビデを赦し、驚くことにバテ・シェバとの関係を祝福し、二人からソロモンが誕生しました。

ソロモンという名前はシャロームに由来し、「平和」という意味があります。

ダビデは神からの祝福を回復したのです。

主はいつまでも争ってはおられない。とこしえに怒ってはおられない。」(詩篇103:9)

とあるように、神は誰が死ぬのも喜びません。

立ち返って、生きよ」(エゼキエル18:32)

と命じられる神です。

罪を告白し、主に立ち返るならば、神は暗い夜を輝く朝に変えられます。

主に立ち返るなら希望はあります。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

2サムエル 12:1-15

「ダビデはナタンに言った。「私は主の前に罪ある者です。」ナタンはダビデに言った。「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、」(12:13,14)

罪は人間の当事者だけでなく、究極的に神に対して犯すものです。

ダビデは「私はあなたにただあなたの前に罪ある者です。」(詩篇51:4)と告白しています。

驚くべき真理は、ダビデのように、罪を認めて告白し、悔い改める者には赦しが与えられるということです。(1ヨハネ1:9参照)

もちろん、それは、キリストの十字架の御業のゆえです。

ただ、「しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので」とあるように、罪に伴うその結果は残ります。

私たちは、あなたがたがどんな悪も行うことのないように、神に祈っています。」(2コリント13:7)

2サムエル 11:14-27

「しかし、ダビデが行ったことは主のみこころを損なった。」(11:27)

ダビデ王は、誰にも知られずに自分の罪をやり過ごすことができたと思ったと思います。

しかし、聖書ははっきりと言います。

しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。」(LB)

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6:7)

その罪は必ず身に及ぶことを知らなければならない。」(民数記32:23口語訳)

罪を覆い隠すことはできません。

神は罪をよしとされる方ではありません。

イエス様の十字架の御業は、罪を軽視してはいけないことも教えています。

ただ、悔い改めて神に立ち返る道は開かれています。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:9)

2サムエル 11:1-13

「しかし、ダビデはエルサレムにとどまっていた。」(11:1)

聖書は、すべての問題の発端は自分がいるべき場所にいなかったことにあると言います。

ダビデ王は先頭に立って行くように王として召されていました。

しかし、彼は神の召しを軽視し、神の働きに参加せずに、いるべき場所にいませんでした。

その結果、彼は誘惑に負けて、大失敗を犯します。

ウリヤの言葉は、ダビデにどのように響いたのでしょうか。

神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。」(11節)

私たちはいるべき場所にいるでしょうか。

主よ、もし、私たちがあなたの召しを軽視し、あなたの働きに参加することなく、いるべき場所にいないのであれば、どうか示してください。