使徒 4:23-37

「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」(4:29,30)

ユダヤ人議会(サンヘドリン)は使徒たちに、

「イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならないと命じた。」(18節)

とあります。

脅された彼らは、教会として、一つになって祈りました。

彼らの祈りは第一に、

あなたのみことばを大胆に語らせてください

ということでした。

宣教は、聖書の御言葉を大胆に語ることから始まります。

そして、もう一つは、

イエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください

ということでした。

イエス様の御名によって祈るならば、癒やしとしるしと不思議が伴います。

イエス様の御名があがめられるために、主よ、私たちを用いてください。

使徒 4:13-22

「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。」(4:13)

「無学な普通の人」という意味は、当時、ヒレルやシャンマイといった専門的なラビの学校で技術的な訓練を受けていた人ではないという意味です。

イエス様もユダヤ人たちから、「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」(ヨハネ7:15)と言われました。

神の御子、イエス様と三年半共にいたことは、専門的なラビの学校に行くよりも学問があったことが分かります。

教会から離れて聖書やキリスト教をどんなに研究しても、イエス様と共にいる人たちの学問にまさることはありません。

もちろん、これは聖書を学ばなくても大丈夫という意味ではありません。

聖書は祈りながら学ぶものであり、学びながら祈るものということです。

使徒 4:1-12

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(4:12)

使徒たちは、イエス・キリスト以外に救いはないことを宣言しました。

ユダヤ人議会(サンヘドリン)は、

「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」(7節)

と尋問しました。

皮肉にも彼らが認めていた彼らよりも上の権威は、支配者であるローマ帝国だけでした。

ペテロは「聖霊に満たされて」(8節)大胆に語ります。

「神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。」(10節)

歴史は繰り返します。

ルターも、時の神聖ローマ帝国の帝国議会から尋問を受けます。

ルターも聖霊に満たされて大胆に語ります。

宗教改革のスローガンの一つは「キリストのみ」です。

使徒 3:11-26

「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」(3:16)

ペテロは言いました。

「皆さん。どうして、そんなに驚くのですか?なぜ、私たちが自分の力や信仰深さによって、この人を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。この奇跡は、アブラハム、イサク、ヤコブの神様、つまり私たちの先祖の神様が、そのしもべイエスに栄光を与えるためになさったことです。」(12,13節LB)

ペテロは人々の注意を意図的に自分自身からそらしました。

これは、特別な力や信心深さの話ではなく、あくまでもイエス様の御名によると。

イエス様を通して与えられる信仰を通してもたらされる奇跡の世界であると。

福音はイエス・キリストに関するものです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

使徒 3:1-10

「すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」」(3:6)

生まれつき足の不自由な人が癒やされました。

それは、神が働かれている以外に説明することができない奇跡でした。

福音と奇跡は切り離すことはできません。

ペテロは施しを求められた時、自分の可能性ではなく、イエス・キリストを指し示しました。

私たちもペテロと同じように、私たちの必要に唯一答えることができる生ける神、主イエス・キリストを指し示すことが重要です。

私たちは金銀でその人の必要を満たすことはできません。

しかし、イエス・キリストは、その人の本当の必要に答えることができます。

福音と奇跡は、今も、継続しています。

使徒 2:37-47

「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」(2:42)

ペテロの伝道説教に人々は応答し、その日3千人の人が悔い改めてバプテスマを受けました。

彼らはいつも使徒たちの教えを守っていたと言います。

現在、私たちが手にしている新約聖書は使徒たちの教えを集めたものです。

ですから、新約聖書を学び、生きていくということは、初代教会の信徒たちと同じように、使徒たちの教えを守っているということです。

このように教会は二千年間、聖書の学び、信徒の交わり、聖餐、祈りに専念してきました。

そして、

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」(2:47)

伝道説教は今も変わりません。

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(2:38)

使徒 2:22-36

「このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(2:32)

使徒2章は、使徒ペテロによる最初の伝道説教です。

この伝道説教から分かるように、福音(ゴスペル)説教とは、人々にイエス・キリストについて語ることです。

イエス・キリストが福音メッセージの内容です。

イエス・キリストは十字架にかかり死なれましたが、三日目に死の力を打ち破りよみがえられました。

これが、私たちが語る福音です。

福音は、イエス・キリストについて語ることであり、イエス・キリストが誰であるかを宣言することです。

「キリスト」は「油注がれた者」という意味で、イスラエルの民が待ち望んでいたダビデに約束した「メシア」(救い主)を指します。

イエス・キリストこそ神の御子、救い主です。

使徒 2:14-21

「神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(2:17)

聖霊に満たされた若い人は幻(ビジョン)を見るようになり、聖霊に満たされた老人は夢を見るようになると言います。

以前、チャック・スミス先生が、息子さんに

「いつになったら、ビジョンを見るようになるんだ」

と言ったら、

「お父さんはいつになったら夢を見るようになるの?」

と言われたという話をしていました。

もっとも、ここでは「ビジョン」も「夢」も同義語として使われています。

つまり、聖霊に満たされた人は、年齢に関係なく、目に見える現実に縛られて生きていくのではなくて、神が与えてくださる「夢とビジョン」に生きていくようになるということです。

聖霊が注がれる時、私たちは神の夢とビジョンを見るようになります。

過去がどうであろうとも、現状がどうであろうとも、神は私たちに夢とビジョンを与えてくださいます。

使徒 2:1-13

「すると皆が聖霊に満たされ、」(2:4)

ペンテコステの日、みなが一つ所に集まって祈っていたその場所に聖霊様が臨まれました。

聖霊様は三位一体なる神の第三位格です。単なる力ではありません。

私たちに力を与え、満たす神です。

LBでは、

その場にいた人たちは、みな聖霊に満たされ

とあります。

どんなに技術が発達しても、その場所にいなければ、分からない霊的な雰囲気があります。

教会に集まり共に礼拝を捧げる、「その場」にいることに意味があります。

ペンテコステの日に満たされた人たちは異言で語りはじめたとあります。

多くの人は聖霊に満たされると異言で祈り始めます。

ある人は何かを感じ、ある人は何も感じません。

ただ、聖書は、皆が聖霊に満たされたとありますように、この終わりの時代、神はすべての人に聖霊を注がれています。

もっとも、私たちは漏れる器ですから、日々、聖霊様を歓迎し、聖霊様に満たされて歩む必要があります。

使徒 1:12-26

「彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが、」(1:14,15)

教会の始まりは祈り会でした。

神は私たちの祈りを用いられます。

日本におけるプロテスタント教会も祈り会から始まりました。

一八七二年の出来事です。

「バラ師の指導の下に、数名の学生有志の男女相集りて使徒行伝の講義を聴き、熱烈なる説明に感じて互に相祈りつゝありしが、出席者以外に多く、少なきも二十名、大きは三四十名に達する盛況を呈し、祈祷につぐに祈祷を以てし、感激の念、熱誠の情あふるゝばかりにして感興尽くる時なく、予定の一週間の祈祷会は、延いて数週間の長さに亘りて尚止まず、祈祷会の進行につれて熱情ますます加わり、中には感泣して神に祈り、初代教会設立当時のペンテコステの日の如く、日本にも聖霊の降臨ましまして切支丹禁制の此の異教の地に、救世主耶蘇基督の御栄光のあらわれんことを切願せしも少なからざりしが、その応験とや言わん、不思議にも爰に数名の回心者を起し、遂に基督公会の設立を見るに至りぬ。」(出典:https://www.revival.co.jp/rj/2009/05/post-44.php )