エペソ 5:1-14

「むしろ、口にすべきは感謝のことばです。」(5:4)

ある学者は、「感謝を捧げることは、クリスチャン生活とほぼ同義語です」と言います。

ユダヤ人の格言に、こういうものがあります。

「『ありがとう』ということばが口から出るまで、子どもにほかのことばを教えるな」。

他者を一番喜ばせる言葉は、「ありがとう」だそうです。

神を一番喜ばせる言葉も、「ありがとう」です。

「福音に生きる者は、感謝がふさわしい」

と聖書は言っているということです。

少なくとも、神が、こんな私をも愛してくださっていることを感謝することができます。

イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり死に、復活されたことを感謝することができます。

イエス・キリストと共に生きることができることを、感謝することができます。

いつも喜び、たえず祈り、すべてのことを感謝するように努めること、それが、神の意思であり、この地上に、キリストの御国を現わしていくことです。

エペソ 4:25-32

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」(4:30)

聖霊様は単なる力とか抽象的な物体ではありません。

悲しむこともある、人格をもった存在です。

聖書が教える神は、父、子、聖霊の三位一体なる神です。

だから聖書は言います。

「聖霊を悲しませるような生き方をしてはいけません。この聖霊は、罪からの救いが完成する日のために、救いの確かな証印を押してくださる方であることを忘れてはなりません。」(LB)

聖霊様の悲しませることの一つは、悪い言葉を口から出すことです。

前節にこのようにあります。

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」(29節)

エペソ 4:17-24

「また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、」(4:23)

「霊と心」は、直訳すると「考え方の霊」で、私たちの思考に影響を与える聖霊なる神様のことです。

要するに、

あなたがたの考え方を、聖霊様によって新しくされ続けなさい。

ということです。

私たちは、聖霊様によって、日々、私たちの考え方を新たにされ続ける必要があります。

聖霊なる神様によって、私たちの考え方が刷新され続けるために、3つのことが求められています。

一つ目は、22節、古い人を脱ぎ捨てること

「古い人」とは、神を認めない生き方のことです。

二つ目は、23節、新しくされ続けること

三つ目は、24節、新しい人を着ることです。

私たちは、古い自分を脱ぎ捨て、日々、新しくされ、新しい人を着る必要があります。

これは、長い人生をかけて取り組んでいく内容です。

エペソ 4:7-16

「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」(4:11,12)

「キリストのからだ」、それは「教会」です。

「教会」を建て上げることは、聖書が命じていることです。

「なぜこのように、それぞれに賜物が与えられたのでしょうか。それは、神の民となった人々が、神のためによりよく働けるよう整え、キリストの体である教会を、力にあふれた、完成した状態へと建て上げるためです。」(12節LB)

それぞれに賜物が与えられている理由は教会を建て上げるためだと言います。

「神の国」をこの地に輝かせる、天で行なわれているように、地でも行なわれている神の働きに参与するために、私たちは整えられる必要があります。

エペソ 4:1-6

「さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。」(4:1)

この手紙をエペソの教会に書いた時、パウロは牢獄に入れられていました。

今も、信仰のゆえに、牢獄に入れられているクリスチャンが世界中にいます。

イエス・キリストの福音は、それほど貴いものです。

ジョン・ウェスレーはこんなことを言いました。

私は、死なんとするものが死なんとする者に語るように、二度と語ることができないかのように、説教する。

パウロの心境はまさに、そんな所だったと思います。

「召された」は、英語で「Calling」と訳すように「呼ばれた」という意味があります。

何に「呼ばれた」かと言いますと、イエス・キリストを、よみがえりの主、王として信じるように呼ばれました。

「その召しにふさわしく」とあるように王なるイエスに忠誠を尽くすように召されています。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

エペソ 3:14-21

「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」(3:19)

「人知をはるかに超えたキリストの愛を知る」ということは、「人間が知ることができないものを知ることができるように」ということですから、ある意味、矛盾した表現です。

しかし、こうも考えることができます。

「キリストの愛」が私たちの理解を超えているという事実を、単なる「知識」としてではなく「体験的に」知って欲しいとパウロは祈っていると。

ある神学者(バルト)がこんなことを言っています。

「神の啓示は、不思議を根絶するよりもむしろ、恐れと敬意を創る。・・・理解された神というのはいつも、偶像である。」

そもそも、私たちの頭で理解できるような神は本物ではないと。

「知識」としてではなく「体験的に」キリストの愛を知ることができますように。

エペソ 3:1-13

「これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、」(3:10)

今日の箇所は、キリスト教会がなぜ存在しているかを力強く宣言しています。

キリスト教会は、今まで隠されていた奥義でもある「神の豊かな知恵を示すため」に存在していると言います。

「教会の存在を通して」神の豊かな知恵は、この世界に示されると言うのです。

「教会」に与えられている可能性は、私たちの理解を超えています。

NTライトは、教会は「すべての肌の色、すべての社会的、文化的背景の、男、女、子どもたちが、喜びをもって集り、唯一まことの神を礼拝する共同体(コミュニティ)」のことだと言います。

つまり、多様な人たちが共に集り、唯一まことの神を礼拝する地域教会の存在は、神の豊かな知恵を示すというのです。

こういうことです。神の知恵は、その非常な多彩さにあって、支配者たちや天上の権威者たちに教会を通して知らされた。」(KNT)

エペソ 2:11-22

「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(2:14-16)

この箇所の主語はキリストです。

キリストこそが、平和そのものであるということです。

具体的にキリストは、三つのことをしました。

一つは、両者、異邦人とユダヤ人を一つにしました。

二つ目は、隔ての壁を打ち壊しました。

三つ目は、敵意を廃棄されました。

敵意の説明として「律法」が言及されますが、これは当時のユダヤ人たちが、「ユダヤ人」と「異邦人」を区別するために利用していたからです。

こうしてキリストは「新しい一人の人」、「教会」を形成されました。

エペソ 2:1-10

「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」(2:10)

「神の作品」という意味は、私たち一人一人は、神の指紋がついている、神にとってかけがえのない存在であるということです。

そして、私たち一人一人、造られた目的があるという意味です。

ある学者が、この「神の作品」というのを「楽器」と考えるといいと言います。

楽器は見るものではありません。

実際、楽器というものは奏でていないと、音は劣化し、本体も壊れてしまいます。

私たちも、この地上に奏でられるために存在しています。

私たちはただ、神の恵みによって救われます。

そして、神の恵みの御手の中で生きます。

楽器は自分の力で奏でることはできません。

奏でていただく必要があります。

エペソ 1:15-23

「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(1:23)

二つのポイントがあります。

まず、キリストがどういうお方か。

キリストは「すべてのものをすべてのもので満たす方」だと言います。

すべてのものをすべてのもので」というのは、「すべてのことを、あらゆる方法で」(all things in every way)という意味です。

どんなものでも、どんなやり方でも、満たし続けるお方であるということです。

私たちは、満たされる必要があります。

人は、満たされる必要があります。

イエス・キリストだけが、「すべてのことを、あらゆる方法で」満たしてくださるお方です。

二つ目のポイントは、教会の状態です。

教会は、このキリストが、「満ちておられるところ」です。

それは、リビングバイブルが訳しているように、「キリストの霊が満ちあふれるところ」です。

聖霊なる神様が満ち溢れるところ、それが教会です。