マルコ 15:1-15

「しかし、イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた。」(15:5)

イエス様が沈黙されたのには理由がありました。

それは、イザヤ書53章に出てくる「苦難のしもべ」です。

「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(7節)

イエス様はご自身をこの「苦難のしもべ」として示されました。

その姿は、バラバと比較することによって際立ちます。

バラバは典型的なユダヤ人の反逆者でした。

彼は暴力によって、ローマ帝国を破ることによって、神の国をもたらすことを心に決めていた人でした。

イエス様は暴動を扇動することもなく、静かに、私たちを救うために、十字架にかかって死ぬことによって、神の国をもたらされました。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

マルコ 14:66-72

「するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。」(14:72)

ペテロはこの時まで、イエス様の忠実な弟子でした。

それがこの時、もろくも崩れたのです。

実は、四福音書すべてに、このペテロの惨めな姿が描かれていています。

それは、「本当は、信仰はここから始まる」と訴えているかのようです。

もちろん、それに気づいて始まる人もいますし、ついに始まらない人もいます。

自分の弱さ、欠けを見せつけられ、自分に絶望し、どっと泣き崩れたその時、この時、同時になされたイエス様の宣言が生きてきます。

「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」

泣き崩れたペテロだからこそ、立ち返ることができました。

マルコ 14:53-65

「そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」」(14:62)

このイエス様の発言は、二つの聖書のみことばが結び付けられたものです。

「主は私の主に言われた。「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」」(詩篇110:1)

「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。」(ダニエル7:13)

どちらの箇所もメシアに言及しています。

イエス様は、この二つを組み合わせることで、明確な宣言をしています。

イエス様は自らが、権威の座、すなわち、全世界に君臨する天の御座において神の右に座していることを主張したのです。

神のご自身の全世界に対する主権を、主張したのです。

マルコ 14:43-52

「イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。」(12:48)

イスカリオテのユダ、そして、当時のユダヤ人たちの誤解は、彼らが剣や棒を持ってきたところに如実にされます。

それは、イエス様が断固として拒んできた革命的指導者としてのメシア像でした。

イエス様は抵抗することなく捕らえられることによって、最後まで彼らのメシア像にのることはありませんでした。

イエス様の真意はマタイの福音書に明確です。

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」」(26:52-54)

マルコ 14:32-42

「さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」」(14:32)

この箇所は有名なゲッセマネの祈りの箇所です。

ライト師はこんなことを言います。

「クリスチャンの祈りは、二つに割れた断層の境目に立って祈るようなものである。それは、両側から引っ張られる二本のロープの端をつかみ、必死で結ぼうとするかのように、ゲッセマネの園でひざまずき、天と地を結びつけようと、生みの苦しみでうめくイエスによって形作られている。」

ゲッセマネの祈りでイエス様が苦しまれた理由は、神の領域である天と、私たちが生きるこの地を結び付けるためだったと言います。

イエス・キリストを信じるということは、このイエス・キリストによって結び付けられた天と地が重なり合う地点で生きることに召されているということです。

天と地が重なり合う地点は、ある意味、ゲッセマネの園のような場所です。

※ 教会暦では今日は灰の水曜日。今日からレント(受難節)が始まります。

 

マルコ 13:22-31

「そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた。」(14:26)

イエス様はこの後何が起こるかご存じでした。

この後に大きな試練が待ち受けていると知っていたら、私たちならば何をするでしょうか。

イエス様は賛美の歌を歌ったと聖書は言います。

過越の食事における締めくくりの賛美の歌は詩篇一三六篇でした。

この賛美の歌には少なくとも3つのポイントがあります。

第一に、神に感謝すること。

第二に、神が良いお方であるということを認めること。

第三に、神の真実が永遠であることを認めること。

イエス様はこれから起こる大きな試練の前に、神が良いお方であると、神の真実が永遠だと、神に感謝し、賛美の歌を歌ったのだと思われます。

つまり、賛美の歌を歌い続けること、それが、イエス様が試練に立ち向かうためになされたことだったというのです。

「歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ 歌いつつ歩まん この世の旅路を」(聖歌498)

マルコ 14:12-21

「種なしパンの祭りの最初の日、すなわち、過越の子羊を屠る日、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事ができるように、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」」(14:12)

過越の食事は見て、匂いを嗅いで、味わい、感じるものです。

そして、この過越の食事の中で出エジプトの出来事が語られました。

この時も、イエス様は出エジプトの話をしたことが十分考えられます。

出エジプトはエジプトの奴隷生活から、イスラエルの民を神が解放された話です。

イエス様は出エジプトの話をしながら、これからご自身が死なれることを語りました。

過越の食事で食べるパンを、ご自身のからだと同一視して、味わうようにさせました。

過越の食事で飲む杯を、ご自身の血と同一視して、味わうようにされました。

そのようにして、弟子たちは、出エジプトのストーリーと、これから起こる出来事、十字架の死と復活を、リンクすることができるようにしました。

マルコ 14:1-11

「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」(14:9)

記念として語られると言われたことは、

「純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ」

という話です。

ある人たちは憤慨して言いました。

「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。」

考えてみますと、イエス様に捧げることを「無駄」と決めつけていること自体が、イエス様をそれだけの存在としてしか見ていなかったと考えられます。

イエス様のためにしたことに「無駄はない」とイエス様は言われました。

イエス様のためになされていることを、自分の価値判断で「無駄」だとか批判してはいけないと言われたのです。

「あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(1コリ15:58)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

マルコ 13:28-37

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(13:31)

この世の終わりが何月何日に来ると言う人がいたら、その人は偽預言者です。

なぜなら、イエス様が明確に、

「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。」(32節)

と言われたからです。

偽預言者たちに惑わされないためには、聖書を読み、学ぶ必要があります。

なぜなら、イエス様が

「わたしのことばは決して消え去ることがありません。」

とおっしゃられたからです。

イエス様は言われました。

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」(33節)

要するに、「目を覚ましていなさい」という意味は、いつ、イエス様が来ても大丈夫という生き方をしなさいということです。

ですから、ルターが言ったように、

「たとえ明日世界が終わるとしても、それでも今日私はリンゴの木を植える」

という生き方が大事です。

マルコ 13:14-27

「『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら─読者はよく理解せよ─ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。」(13:14)

旧約聖書と新約聖書の間、紀元前168年、シリアのアンティオコス4世はエルサレムを占領し、ギリシア化政策を進めました。

神殿をギリシア化させ、神殿の祭壇に偶像を作りました。

マカバイ記にはこの神殿の祭壇の上に立てた偶像を「荒らす憎むべきもの」(1マカバイ1:54, 6:7)と呼びます。

イエス様は同じようなことが起こると予告しました。

そして、70年にローマ帝国によって滅ぼされることによって「すでに」実現しました。

しかし、この世の終わりにもたらされる出来事は「まだ」これからだと考えられます。

同じように、エルサレムに神殿は再建され、再び注目される時が来ると考えられます。

脅しているわけではありませんが、はっきり言えることは、「その日」が来る前に、イエス・キリストを信じた方が良いということです。