Ⅱコリント 8章

「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。」(1節)

 この箇所でパウロが言う「神の恵み」とは「献金」のことです。ここでは特に「マケドニヤの諸教会に」とありますが、それはピリピの教会のことを指しています。二節にこうあります。「多くの試練や困難のただ中にあったマケドニヤの諸教会が、ひどく貧しいにもかかわらず喜びに満ち、その結果、あふれるほど惜しみなく、他の人々に施すようになりました。」(LB)パウロはピリピ書で彼らのことを言っています。「贈り物を感謝するのはもちろんのこと、何よりもうれしいのは、その親切な行いのゆえにあなたがたが受ける、豊かな報いのことです。」(ピリピ4:17LB)貧しさの中にある人から献金を受けることは申し訳なく感じます。しかし、献金をすることを通して受ける豊かな報いは、それ以上です。ですから献金は私たちに与えられた神の恵みの世界なのです。

Ⅱコリント 7章

「マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。」(5、6節)

 使徒パウロと聞くと、私たちとは違う屈強なスーパー・クリスチャンをイメージします。しかし、使徒パウロもまた、私たちと何も変わらない普通の人でした。彼もまた不安を感じ、恐れを感じ、落ち込みました。しかし、彼は「意気消沈している者を励ましてくださる神」(LB)に励まされたのです。パウロはテトスが来たことによって励まされるのですが、神様はそのようにして励ましたのです。今日も同じように、神様は何かを通して私たちを励ましてくださいます。「神様だけが、今は恥じてうなだれている私の頭を、高く持ち上げてくださるお方です。」(詩3:3LB)

Ⅱコリント 6章

 「私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、」(3節)

パウロは自分が伝道の妨げ、周りの人々のつまずきにならないように気をつけてきたと言います。LBではこのように訳しています。「私たちの行動が、だれかをつまずかせたり、主との出会いを妨げたりすることがないように、生活態度には気をつけています。私たちの欠点が、主を非難する口実に用いられたら大変だからです。」私たちの行動が、だれかが主と出会うことを妨げるのならば、これほど悲しいことはありません。パウロのように細心の注意を払っていても誰かをつまずかせてしまうこともあります。しかし、パウロのような姿勢をもつことは大切なことだと思います。イエス様は、子供たちがイエス様のもとに来るのを妨げようとした弟子たちを怒りました。誰であれイエス様のもとに来ようとする人を妨げるならばイエス様は必ず怒られます。

Ⅱコリント 5章

「肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(9、10節)

  すべての人は、やがて、キリストのさばきの座に立ちます。しかし、キリストを信じる者たちにとってのさばきの座というのは、賞を受けるさばきの座です。ここで使われている「さばき」という言葉は、オリンピック・ゲームの審判(ジャッジ)に使われる言葉です。この世で、私たちが良い行いをして、人々から称賛されたら、私たちの報酬はこの地上ですでに受け取ったことになります。しかし、主のために奉仕しても、誰からも評価してもらえないことがあります。それらの報いを、このキリストのさばきの座で受けるのです。「よくやった」と言われるその日まで、主に喜ばれることをしていこうではないでしょうか!

Ⅱコリント 4章

「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」(1,2節)

 使徒パウロは、神のみことばを教えるということに対して聖なる畏れをもっていました。異端や新興宗教は、平気で神のことばを曲げて話しますが、それは大変恐ろしいことです。LBでは、「書かれてもいないことを、聖書の教えであるかのように思わせることも、決してしません。」とありますが、神のみことばに対する畏れは、神のみことばを教える立場にある人には必須条件です。聖書はいろいろと解釈できるという人がいますが、そんなことはありません。聖書は、自分が言いたいことをつじつま合わせるために存在しているわけではないからです。聖書には聖書の文脈がありますし、聖書は聖書に解釈させることが大原則です。

Ⅱコリント 3章

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊で
す。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のお
おいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へ
と、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働
きによるのです。」(16-18節)

私たちが一番求められていること、それは、主に向くことです。問題やこの世の
楽しみに私たちが向いているならば、神様が与えようとしている自由を体験する
ことは難しいことでしょう。聖書は言います。「私たちの指導者であり、教師で
あるイエス様から、目を離さないようにしなさい。」(ヘブル12:2LB)ペテ
ロが、イエス様から目を離した瞬間、沈んでいってしまったように、イエス様か
ら目を離してしまうと、私たちの人生は沈んでしまいます。しかし、イエス様の
方に向くのならば、聖霊なる神様が必ず私たちの人生を栄光から栄光へ変えて下
さいます。

Ⅱコリント 2章

「あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。」(7節)

 日本人は道徳観が比較的に高い国民だと思います。そのため、それぞれが持つ倫理規準に達さない人を切り捨てやすいという側面もあると思います。しかし、それはイエス様がしたこととは違います。イエス様はご自身の規準で人々を裁くことはありませんでした。逆に、裁く人を裁かれました。同じようにキリストのからだである教会にいつも必要なのは恵みの雰囲気です。教会は恵みのビニルハウスである必要があります。神の前に悔い改める人が、切り捨てられるのではなく、回復できる場所である必要があります。使徒パウロは言います。「今はむしろ、赦し、慰めてやりなさい。そうしないと、余りの悲しみと絶望に打ちひしがれて、立ち直れなくなるかもしれません。」(LB)神様は私たちを切り捨てたいのではなく、回復したいのです。

Ⅱコリント 1章

「これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(9節)

 使徒パウロはアジアで体験した苦しみに言及し、自分の無力さを痛いほど思い知らされ、自分の許容範囲を超え、死を覚悟したと言います。ところがパウロはこのように告白します。「しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神様にお任せしたからです。救い出すことができるのは、神様だけです。」(LB)パウロは、自分ではどうすることもできないがゆえに、神様だけに頼ることを強制的に学んだと言うのです。神様は時に、私たちが自分自身ではなく、神だけにより頼むことを学ぶために、私たちにはどうしようもないような状況に追い込まれることを許可します。私たちはいつになったらパウロのように謙そんになって、キリストを離れては何もできない(ヨハネ15:5)と認めることができるのでしょうか。

※ 本日の第三礼拝(18時から)は英語礼拝。ジョンT宣教師が来られます!

ルツ 4章

「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。」(13節)

  誠実なボアズは、正当な手続きを経てルツをめとることにします。それは、ボアズよりも権利のある親類が「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。」(六節)と言ったように、彼の財産を失う危険を伴うものでした。ボアズはまさにすべてを捨ててでも、ルツを贖ったのです。イエス様は言われました。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)ボアズにとっては、ルツは宝のようなものであり、彼は彼女のためにすべてを捧げました。ボアズはキリストの象徴であり、ルツはキリストの花嫁である教会の象徴だと言われます。キリストは私たちを贖うためにその命を捧げてくださいました。

ルツ 3章

「彼は言った。『あなたはだれか。』彼女は答えた。『私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。』」(9節)

ルツは義母のナオミの言うとおりにすべてを行いました。ナオミはボアズが彼女に「すべきことを教えてくれる」と言いました。しかし、ルツはボアズに対して自分の意志で、自分から『妻にして欲しい』(「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください」の意味)と頼みました。ルツはナオミに利用された被害者ではありません。彼女自身が望んだのです。神のご計画の中に生きるということは、それは盲目的に従うこととは違います。盲人のバルテマイにイエス様が「わたしに何をしてほしいのか。」(マルコ10:51)と言われたように、神様は私たちに「何をして欲しいのか」と尋ねてくださるお方です。