マタイ16:1-20

「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(18節)

ペテロの

「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(16節)

という信仰告白は、神様から直接的に与えられた啓示だとイエス様は言います。そして、この啓示の上に、イエス様は、イエス様の教会を建てると言われました。イエス様は、今も生きて働かれている神の御子であり、イエス様の教会はイエス様が建て上げられているということを私たちは認識する必要があります。教会は単なるコミュニティ・サークルではありません。「わたしはわたしの教会を建てます」とおっしゃられる生ける神イエス・キリストが頭である限り、教会に打ち勝てるものはありません。

マタイ15:10-39

「そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。」(28節)

イエス様のカナン人の女の人に対する言葉には人種差別的発言を感じます。

「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」(26節)

イエス様はどうしてそのようなことを言われたのでしょうか。

イエス様と共にいたユダヤ人たちは、イエス様と同じ思いだったことでしょう。

彼らにとってユダヤ人以外の異邦人は「小犬」のようなものだったことでしょう。

「よく言った!」

と思ったことでしょう。

しかし、それに対する彼女の発言、そして、彼女の信仰告白をほめるイエス様の姿に彼らは言葉を失ったことでしょう。

そして、彼らは知ったことでしょう。

人は信仰によって救われるということを。

マタイ14:22-15:9

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。」(15:3)

「言い伝え」とイエス様が指摘したのは成文律法(モーセ五書)とは別に後のユダヤ教の基盤となった口伝律法のことです。ユダヤ教のラビたちは、イスラエルと異邦人を区別するために、書かれた聖書と口伝のミシュナを神様はモーセに与えたと教えました。しかし、イエス様ははっきり言いました。

「彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」(9節)

「先祖たちの言い伝え」はその時代には意味があったとしても、時と共に見直す必要があるものです。伝統主義は、気を付けないと神の戒めを破ることになります。私たちは聖書のみに立ち、刷新され続けなければなりません。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

マタイ14:1-21

「そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」」(1,2節)

国主ヘロデとは、ヘロデ大王の息子で、三九年までガリラヤ地方を治めていたヘロデ・アンティパスです。バプテスマのヨハネはただ神様だけを恐れて生きていました。しかし、権力者のヘロデは、群衆を恐れ(5節)、列席の人々の目を恐れ(9節)て、ヨハネを殺害します。そのため、ずっと自分がしたことに対する後悔の念に縛られ続けます。(2節)神様だけを恐れ、神様のみこころに生きようとする人を神様は捜しています。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(2歴代誌16:9)

マタイ13:36-58

「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(45,46節)

本当に価値があるものを知るならば、それ以外のものは色あせてしまいます。神の御国の素晴らしさを味わったのであれば、同じように、それ以外のものは色あせてしまうものとなるはずです。使徒パウロも言いました。

「主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もない特権と比べれば、ほかのものはみな色あせて見えるのです。私は、キリスト以外のものは、がらくた同然と思っています。」(ピリピ3:8LB)

マタイ13:18-35

「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」(31,32節)

からし種は本当に小さい種です。しかし、大きな木になります。神の国の働きも、本当に小さな働きのように見えます。しかし、必ず生長します。ですから、神の国のためのどんな小さな働きも私たちは軽視すべきではありません。神様は言われます。

「だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。」(ゼカリヤ4:10)

私たちが参与している神の国の働きは、今は目立たない、小さく、隠されたような始まりかもしれませんが、必ず実を結びます。その時の栄光と偉大さは、現在の小さな存在から想像もつかないものとなります。

マタイ12:46-13:17

「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」(13:16)

こうして神様のみことばを読むことができる幸いを私たちは当然のことのように思うべきではありません。イエス・キリストがこの地に生まれ、私たちの罪のために死なれ、葬られ、よみがえられたことの幸いを当たり前のように思ってはいけません。使徒パウロは、

「イエス・キリストは律法を完成(成就)しました」(ローマ10:4)

と言いましたが、イエス・キリストの福音に生きることができる私たちは、預言者や義人よりも祝福された者です。また、こうして教会に属すことができ、共に礼拝を捧げる神の家族が与えられ、共に聖書を読むことが出来る幸いに心を留めたいと思います。

マタイ12:1-21

「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。」(7節)

この箇所で問題になっているのは、弟子たちが他人の麦畑で穂を摘んで食べたことではなく、安息日に穂を摘むと言う労働をしたということです。貧しい者が穂を摘んで食べることは、社会福祉として神の律法として定められていたことでした。パリサイ人たちは、ひもじくなって、穂を摘んで食べ始めた弟子たちを見つけて、批判をしましたが、何か食べる物を提供したとは書いていません。イエス様が引用したダビデとその連れの者たちがひもじかった時の話(1サムエル21章)では祭司が彼らにパンを与えたとあります。何も与えないで批判だけするパリサイ人との比較を感じます。「あわれみ」に生きる者となれますように。

マタイ11:16-30

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(11:29)

イエス様が誕生する約180年前に書かれた外典のシラ書にこんな事が書いてあります。

「わたしのそばに来なさい、無学な者たちよ、学舎で時を過ごしなさい。なぜ、いつまでもそのままの状態でいるのか。お前たちの魂は激しく渇いているのに。」「くびきの下にお前の首を置き、魂に教訓を教え込め。知恵はすぐ身近にある。」(五一・二三、二四、二六)

当時のユダヤ人にとって「くびき」は律法を学ぶことでした。主に飢え渇いて当時の宗教指導者たちから「律法のくびき」を負った人は、疲れた人、重荷を負っている人となっていました。私たちは誰のくびきを負うか、誰から学ぶかが重要です。イエス様のくびき、イエス様から学ぶならば安らぎを見いだします。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

マタイ10:32-11:15

「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(11:12)

「天の御国は激しく攻められています。」と訳された箇所は、受動態としてではなく、「天の御国は力強く到来しています」と中動態として訳すことができます。神の支配が罪人を救おうとして力強く到来していて、それに応えて、同じ力強さで求める人たちは、それをひったくるような力強さで受け止めているというのです。バプテスマのヨハネの質問に対して、イエス・キリストが行っていた御業を伝えた後にこの発言をしています。神は私たちを救うために、どれほど激しく、御業を行われているかを、心に留めたいと思います。