エズラ 6章

「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、また、クロスと、ダリヨスと、ペルシヤの王アルタシャスタの命令によって、これを建て終えた。」(14節)

イスラエルの人々が神殿を建てることに成功した理由の一つとして、預言が挙げられています。ここでいう預言とは、ハガイ書、ゼカリヤ書に記録されている聖書のみことばです。私たちが何かを成し遂げるためには、いろいろな要素が必要ですが、何よりも、神の御言葉、聖書に耳を傾ける必要があります。自分の思いや、自分の意志で成し遂げようとして、行き詰まる時があると思います。その時、何に耳を傾けるかが重要です。私たちは神の言葉、神の語りかけが必要です。神は今も、私たちが成し遂げることができるように聖書のみことばをもって、私たちを力づけられます。

エズラ 5章

「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。」(1節)

二人の預言者がどんな預言をしたかは、ハガイ書とゼカリヤ書に書いてあります。ハガイ書2章にこう記録されています。

「仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。‐万軍の主の御告げ。‐あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。」(4‐7節)

世界を揺り動かすリバイバルを信じて、祈りましょう!

エズラ 4章

「すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。」(4節)

キリストを信じて生きていくならば、逆風は吹かず繁栄するというのは、聖書的ではありません。イスラエルの人々は神殿を建て直そうと礎を据えて建て始めた時、逆風が吹きました。神の国のために何かをしようと思い立つ時、その気力を失わせるようなことが起こったりすることがあります。「どうして?」と思うようなことが起こったりすることがあります。逆風は、私たちがあきらめるために吹くのではなく、私たちが空高く舞い上がるために吹きます。もし、私たちが逆風を祈りに変えることができるならば、マイナスは必ずプラスになります。不可能に見える時こそ、神の奇跡を見る時になります。この後、預言者ゼカリヤが気力を失った人々に神の言葉を伝えます。

「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリヤ4:6)

エズラ 3章

「そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。」(13節)

神殿の礎が据えられた時、ある人は喜び叫び、ある人は泣きました。同じ出来事に対しても、私たちの反応は違います。このことを意識することは重要です。神に礼拝をささげる時、ある人は喜び叫び、ある人は泣き、ある人は静まり、ある人は笑います。私たちが気をつけないといけないことは、神が臨まれている時の私たちの感情を決め付けることはできないということです。涙を流さなければ聖霊に満たされていないというわけではありません。喜び叫んでいなければ、聖霊に満たされていないわけではありません。聖霊の働きには多様性があることを認めることはとても大事です。重要なのは表面に出てくる感情表現ではなく、生ける神が臨まれることです。

今日は、主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

※ 本日の第三礼拝(18時)は英語礼拝。ノリさんとバービーさん(WIND)が来られます!

エズラ 2章

「歌うたいは、アサフ族、百二十八名。」(41節)

バビロンからエルサレムへの帰還者たちの名簿がこの章に記されています。指導者、氏族別の帰還者数、そして神殿を司る帰還した祭司、レビ人の数が上げられます。その中に、

「歌うたい」(LB)

が数えられています。アサフ族は、神に賛美の歌を捧げる役割がありました。ですから、エンターテイメントのための「歌うたい」という意味ではなく、神に賛美を捧げるための「聖歌隊」ということです。聖書がどれほど神に賛美の歌を捧げることを大切にしているかが分かります。礼拝の中で賛美の歌を神に捧げることは、してもしなくてもいいというレベルのものではなく重要なものです。聖歌隊がエルサレムへ帰還した最初の人たちに数えられていることを心に留める必要があります。まず、何よりも賛美の歌を捧げること、賛美が最前線であるべきであることを、聖書は何度も私たちに訴えています。

エズラ 1章

「そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。」(5節)

バビロンに捕囚されていたイスラエルの民は、生活の基盤ができたバビロンから荒廃したエルサレムに戻る気にはなれませんでした。彼らの託された神殿の再建は、決して容易な事ではありませんでした。それでもなお、彼らを突き動かしたのは、

「神にその霊を奮い立たされた」

からです。この世界でキリストの教会を建てあげることも同じような状況だと思います。この世でキリストの教会を建てあげることは聖書が命じていることですが、容易なことではありません。私たちもまた、神に奮い立たされなければ成し遂げられません。彼らはまた6節にあるように物資的な援助、励ましもあったことがわかります。協力も必要です。
今日は東日本大震災から5年。被災地の方々を覚えて祈りましょう。

2歴代誌 36章

「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」(23節)

歴代誌とマタイの福音書の類似性を指摘する聖書学者がいます。歴代誌もマタイの福音書も系図で始まります。そして、歴代誌もマタイの福音書も神が王に権威を与え、主の民に属する者に使命(ミッション)を与えるというところで閉じられています。もっとも、マタイの福音書で神が権威を与えたのは、王の王、神の御子、イエス・キリストです。そして、私たちの使命(ミッション)はエルサレムに神殿を建てることではなく、あらゆる国の人々を弟子とするという神の御国をこの地上にもたらす働きです。

2歴代誌 35章

「彼は祭司たちを任命してその任務につかせ、彼らを力づけて、主の宮の奉仕に当たらせた。」(2節)


ヨシヤ王はないがしろにされていた過ぎ越しの祭りも祝うことを命じました。彼は祭司たちを任命し、

彼らを力づけて

任務につかせました。LBでは

激励して

と訳していますが、何らかの方法で彼らを励ましたと言います。

人はみな、励ましを必要としています。マーク・トウェインは、

たった一回励ましてもらうだけで、まる一ヶ月がんばれる

と言っていますが、励ましの力は計り知れません。宣教師であり探検家であったシュバイツァーはこんなことを言っています。

生きていると、心のともし火が消えそうになることがある。だが、誰かに優しい言葉をかけてもらうと、炎はふたたび燃えさかる。人はみな、自分を励ましてくれた人を思い起こし、その人に深く感謝しなければならない。」

私たちはみな励ましが必要です。心をこめて人を励ましましょう。

2歴代誌 34章

「行って、見つかった書物のことばについて、私のため、イスラエルとユダの残りの者のために、主のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、主のことばを守らず、すべてこの書にしるされているとおりに行なわなかったため、私たちの上に注がれた主の憤りは激しいから。」(21節)

ヨシヤ王は神を熱心に求め、ないがしろにされていた神殿を修復し始めました。その時、放っておかれていた聖書を見つけました。そして、聖書の教えから遠くはなれた自分たちの姿に愕然としました。時代は繰り返します。中世の暗黒時代、マルチン・ルターは聖書を学ぶ中で、ヨシヤ王と同じように聖書の教えから遠くはなれた教会の姿に愕然とし、宗教改革が起こりました。いつの時代も私たちは問われます。聖書をないがしろにしていないでしょうか。聖書を読み、聖書を学び、信仰と人生の規範として聖書に生きることを心がけているでしょうか。聖書は誤りなき神のことばです。

2歴代誌 33章

「しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。」(12,13節)
マナセ王は神に背を向け、神が忌み嫌うことを行い続けました。

10節にはこう記されています。

「主はマナセとその民に語られたが、彼らは聞こうともしなかった。」

行き着くところまで行ってしまったマナセ王は、バビロンへ引かれていきます。

しかし、そこで彼は神の前にへりくだり、悔い改めて神に祈りました。

驚くことは、神は彼の切なる祈りを聞き、彼にセカンドチャンスを与えます。

聖書は言います。

「なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18:31,32)